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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

12月3日~12月7日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、歌手の園まりさん

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12月3日(月) 「子供の頃の話、父に連れて行ってもらった合唱団」
今、歌うことが生きがいという園まりさん。
子供のころ、姉がすでに女優(アイドル)として活躍していました。
父親は音楽好きで、定職が持てず、ふらっと家を出て何週間も帰らないこともあり、学校の提出書類に父の職業をなんと書けばいいのか悩んだこともありました。会話の少ない家庭でしたが母がものすごく苦労していたのは覚えているそうです。
10歳のときに合唱団に入り、11歳の時には「つゆの玉ころり」という曲で童謡歌手としてデビューしました。

12月4日(火) 「プロデューサー的存在の父とスパーク3人娘」
風来坊の父が、ある日渡辺プロダクションの社長のお宅に園さんを連れて行きます。
今で言うプロデューサー的才能があったようです。そこで一曲歌わされて、それがきっかけで渡辺プロダクションに入ることに。
当時高校生でしたが、中途退学。その後、中尾ミエ、伊東ゆかりとともに「スパーク3人娘」を結成。ポップス全盛ではありましたが、自分の目指すものとはちょっと違っていました。それが功を奏したのか大人気に。AKBに匹敵するぐらいの忙しさ。3人いつも一緒。移動のときにはしゃぐのが楽しい思い出でした。3年の活動を経て方向性が見えてきたので3人娘は解消に。

12月5日(水) 「ソロ歌手としての活躍とむなしさ」
スパーク3人娘を解消して、ソロ活動に入った園さん。
宮川泰先生に一語一語指導を受けながら「ささやきムード歌謡、園まり節」が確立していきます。語るように歌うことを心がけていたという園さん。一方で、忙しければ忙しいほど、自分が何をしたいのかわからなくなってきているのに気づきます。
打ち明けたり相談できる人もいなく悩みは深くなるばかりでした。

12月6日(木) 「父と母の絆の結びなおし」
43歳で一人暮らしをはじめた園さん。
女優もしていたが、お茶を入れる、切符を買う、など全部バーチャル。あまりのふがいなさにだんだん女優、歌手活動から遠ざかっていきます。そのとき、友人が近所の小学校の林間学校でカレーを作るお手伝いを誘ってきました。いざやってみると、楽しくてしょうがない。幸せで涙が出たそうです。園まりの呪縛から解き放たれた瞬間でした。
その後、遠ざかっていた父と再会。その父の癌が発覚。できる限りのことを父のためにしようと心に誓います。母を説得し、病室で再会。父が謝罪したときに娘、園まりが感動したこととは?

12月7日金曜日「歌うことの本当の意味を沖縄で知る。」
だんだん自信を取り戻した園さん。
沖縄でのコンサートで、涙を流して聞いてくださるお客さんを見て、「心がひとつになる」ということを実感。病床の父に報告すると、その父も本当に喜んでくれました。
その後、自分自身にも癌が発覚。治療しながら歌手活動を続け、見事克服。
少女の頃は、さめて歌っていたのに、今は歌うのが楽しく、やりがいをものすごく感じています。
3人娘も復活して現在は充実した毎日を送っています。

<園まり>
1962年、渡辺プロダクションから「鍛冶屋のルンバ」でデビュー。中尾ミエ、伊東ゆかりと「3人娘」を結成し国民的アイドルに。囁くように語りかける独特の歌唱で「逢いたくて逢いたくて」「夢は夜ひらく」「何も云わないで」などミリオンセールスを記録。映画化もされ、日活黄金時代のスクリーンでも活躍する。NHK紅白歌合戦には6年連続出場。マルベル堂・ブロマイド・女性歌手売り上げでは、2年連続1位に。94年から休業。 2003年に本格的な音楽活動を再開し、東京・青山で「園まりリサイタル」を開催。2011年、待望のニューシングル「もう一度逢いたくて」発売。
現在は全国各地で「3人娘コンサート」ツアーを開催中。

11月26日~11月30日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の赤木春恵さん

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11月26日(月) 「女優になるキッカケは・・・」
今週のゲストは女優の赤木春恵さん。
満州で生まれた赤木春恵さん。女優になるキッカケは「自立したかったから」。
それ以外にも、花嫁修業が嫌だとか、結婚したくなかったとか色々と理由があったのですが...。
そう考えていた頃、お兄様が映画の助監督を務める現場に遊びに行った時、監督から「女優になってみない?」の一言に『しめた!』と言わんばかりに女優の世界へと飛び込んでいきます。

11月27日(火) 「心友・森光子」
先日、お亡くなりになった森光子さんと深い親交があった赤木春恵さん。
ふたりが出会ったのは、戦時中、兵舎へと慰問に向かうトラックの中だったそうです。
最初は目配せする程度だったらしいのですが、終戦後、死んだと聞かされていた森光子さんと再会した事から、以後、70年にも続く親交を深めていきます。
森光子さんとの出会いや思い出についてお話いただきました。

11月28日(水) 「女優・赤木春恵」
「細腕繁盛記」や「渡る世間は鬼ばかり」など、意地の悪い役を演じるイメージがどこかにある赤木春恵さん。最初は何とも思っていなかったようですが、視聴者からの反応や、自分とはまったく違うイメージが刷り込まれるとあって嫌だったそうです。
ところが、番組を見ていたNHKのプロデューサーが赤木さんにホレ込み、ドラマ「藍より青く」のキャストに抜擢されます。さすがにこの時は、今まで演じてきた役に関して愛おしく感じたそうです。

11月29日(木) 「橋田壽賀子さんとの出会い」
「渡る世間は鬼ばかり」のお母さん役でお馴染みの赤木春恵さん。
実は、脚本家の橋田 壽賀子さんとの出会いはなんと、森光子さんの「放浪紀」だったんだそうです。「不思議な縁だよねぇ...」と、改めて振り返る赤木さんに、橋田壽賀子さんとの出会い、エピソードについてお話をお聴きしました。

11月30日(金) 「元気な赤木春恵さん」
今年3月に米寿を迎えた赤木春恵さん。
お医者さんからも、骨密度は20代と代わらないと太鼓判を押されるそうです。
また、現在撮影中で、来年公開となる映画「ペコロスの母に会いに行きます」に赤木さん出演しているのですが、出演するまでのエピソードは赤木さんの人の良さが伝わってきます。
最終日の今日は赤木春恵さんの健康の秘訣と映画についてお聴きしました。


<赤木春恵>
1924年生まれ。1940年に松竹にニューフェースとして入社し俳優活動を開始。
その後、大映、東映に所属し、1959年からは森繁久彌の自由劇団に参加しフリーとなる。
現在、数少ない大正生まれの現役女優として、映画、テレビ、舞台などで、押しも押されもせぬ
大ベテラン女優として活躍。

11月19日~11月22日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、タレントの松岡弓子さん

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11月19日(月)「子供のころの話」
松岡弓子さんは東京生まれ、そしてお父さんの立川談志さんが真打になったのを機に、まだ弓子さんが小さいうちに、一家は新宿に引っ越してきました。子供が苦手な筈のお父さんでしたが、弓子さんが生まれるととても喜び、溺愛しました。呑みに行くときにも弓子さんを連れて行って、他のお客さんに怒られるということもあったのだそうです。お父さんは家でも談志さんだったと松岡さんは言います。家ではつまらないダジャレは言えないし、家族はちょっと恐々、談志さんに接していました。

11月20日 (火) 「談志さんが手を上げた日」
高校生になる頃、松岡弓子さんは毎日ディスコに通っていました。当然、学業はおろそかになってしまいます。父、談志さんはそんな弓子さんにおろおろしていたのだそうです。
年齢を誤魔化してホステスとして働いていた弓子さんを、知人を使って探し出した事までありました。弓子さんが御小言の席に現れてなかったことで、とうとう談志さんは切れてしまい、弓子さんは思い切り叩かれました。でも、これで二人とも吹っ切れたのではないかと弓子さんは語ります。
弓子さんが高校を中退すると、談志さんは海外の仕事に弓子さんを連れて行くようになりました。
いろいろなものを見せようとする親心だったのですが、弓子さんにはこれも通じませんでした。

11月21日(水)「一家と闘病生活」
松岡弓子さんは1年間ほどタレントとして活動をしていました。
スカウトされてタレントになったのですが、生放送をいくつもすっぽかしてしまったのです。
そこで事務所が引退という形にしたのだそうですが、この事をスポーツ紙で知った弓子さんが相談したところ、談志さんは、「おれが全部戦ってやる」と言ってくれたのだそうです。弓子さんは27歳で子宮頸がんに掛かっています。子宮摘出をためらう弓子さんに、ここでも父、談志さんの、「未だ見ぬ孫より、娘が大事だ」という、重みのある一言をもらい、摘出を決断しました。その談志さんもがんに掛かります。声を失いたくないためギリギリまで治療をためらった談志さんは、手術のあと、家族といろいろ筆談で話します。声を失ったけれど、逆に家族との心は通じ合ったと弓子さんは語ってくれました。

11月22日(木) 「今後について」
父、談志が亡くなってから1年、松岡弓子さんは、父がいたづらをしているのでは?と感じるちょっと不思議な出来事に時々出会うそうです。今、弓子さんはテレビ番組「とくだね」のコメンテータもやっています。談志さんは、「くいつきの早さとそそっかしい点は俺似だ。だから危ない」と、話していたのだそうです。弓子さんは今後について、「人生成り行き」と話してくれました。そして、談志さんがまだ、夢に出てこない事が残念だと弓子さんは言います。
でも、実は談志さんが乗り移っているのでは?とも、弓子さんは感じています。


<松岡弓子>
1963年、落語家立川談志の長女として、東京都に生まれる。「松岡まこと」の名で1年間タレント活動。1999年からは銀座でクラブ「Tee Off」を経営している。

11月12日~11月16日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、タレントの新山千春さん

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11月12日 月曜日 「雪深い青森で育った少女」
1981年生まれ、現在31才の新山さん。両親と兄、祖父母という家族構成で育ちました。女の子らしい遊びより、雪上サッカーやスキー、お兄さんと秘密基地を作ったりと、活発な少女だったそうです。誰しもそうであるように、新山さんも芸能界に憧れを抱き始めます。当時の一番の憧れは、ドラマ「101回目のプロポーズ」の主演女優、浅野温子さんでした。

11月13日 火曜日 「15才で芸能界デビュー」
芸能界入りのきっかけはあの「ホリプロタレントスカウトキャラバン」。大好きだった武田真治さんの相手役募集!という文句に惹かれてオーディションに応募した新山さん、最終審査の場で実は、「やらかして」しまうのですが、見事特別賞に輝き上京が決まりました。デビュー直後の新山さんを強く印象づけたのがセブンイレブンのCM。ところが、残念ながら青森にはセブンイレブンがないんだそうです・・・・

11月14日 水曜日 「女優・新山千春」
ホリプロの寮住まいをしながら女優やバラエティなど、仕事に追われていた新山さん。精神的にも追い詰められ、ついに倒れて病院に運ばれた時、目を覚ましたらそこにいたのはお母さん。
初主演映画「なぞの転校生」で、エンドロールのいちばん最初に自分の娘の名前「新山千春」があるのを見て感動してくれたというお母さんと、津軽弁で思う存分話せるふたり暮らしをしながら、さらに女優として活躍の場を広げます。

11月15日 木曜日 「旦那様との出会い」
新山さんの旦那さまは、埼玉西武ライオンズの黒田哲史2軍コーチ。出会った当時、ジャイアンツの現役選手だった黒田さんは、なんと目の前にいる女性が新山千春と知らずに食事をしていたそうです。その後結婚。そして黒田さんは戦力外通告を受けます。取り乱したりお酒に逃げることなく冷静に受け止めていた黒田さんを支えた新山さん。夫婦の絆が強くなりました。

11月16日 金曜日 「ママとしての新山さん」
新山さんの愛娘・小春ちゃん6歳。「昔の人は静かに産んだもんだ。あなたも痛いとか言わずに産んだら」というばっちゃんとの約束で、声をあげずに静かにお産する「静粛出産」に挑みました。TVでもお産の時の映像が公開され反響を呼びました。自分が祖父母や家族とのふれあいの中で育ったので、小春ちゃんにも、たくさんの人と触れ合うことで他人に対する思いやりの心を持つ大人になって欲しいそうです。最終日は、新山千春ママの子育てトーク炸裂です!

<新山千春>
1981年生まれ、青森県出身。第20回ホリプロタレントスカウトキャラバンの審査員特別賞を受賞したのをきっかけに芸能界入り。ドラマ、映画、バラエティ番組と幅広く活躍し、2004年に読売ジャイアンツ所属(当時)の黒田哲史選手と結婚。2006年、第一子である女児を出産。

11月5日~11月9日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、大友康平さん

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11月05日(月)「 回転禁止の青春さ 」
宮城県生まれ、埼玉県育ちの大友康平さん。
大友家は、当時としては珍しく、家庭内に日常的に洋楽が流れているような環境だったため、幼いころから音楽に囲まれた生活を送っていたそうです。そんな大友康平さんですが、本格的に音楽に目覚めたのは小学校高学年の時。
従兄のお兄さんの影響でギターを買ったのがきっかけでした。しかし、ギターのコードを押さえるのが難しいと分かると、次はドラムに夢中になり...。
月曜日は、大友康平さんが中古のオンボロドラムを夢中で叩きまくっていた日々にタイムスリップです。

11月06日(火)「 浮気なパレット・キャット 」
高校生の時に数多くのダンパ(ダンスパーティー)のステージをこなして、バンドに関するさまざまなことを学んだという大友康平さん。
必要に迫られてヴォーカルをやり始めたのもこの頃だったそうです。そして1980年、大学時代の仲間と「ハウンド・ドッグ」としてプロデビュー。その2年後には楽曲が化粧品のCMソングに起用されるなど順風満帆なプロ活動だったはずなのですが、世の中はそんなに甘くはなく、ここで世間の厳しさを知ることになりました。
火曜日は、ハウンド・ドッグ結成までのエピソードを中心に伺っています。

11月07日(水)「 涙のバースデー 」
「業界の人気は高いけれどレコーのド売り上げはイマイチ」。
そんな状態を打破するため、それまで仙台を拠点に活動していたハウンド・ドッグは1983年、東京に出てきていきなりの日本武道館公演という賭けにでます。
果たして、ヒット曲も知名度も動員力もないバンドの、一見 無謀とも思えるこの勝負の行方は?
水曜日は、この武道館ライヴの顛末を、文化放送の地下倉庫から発掘したライヴレコードとともにお送りします。

11月08日(木)「 ff (フォルティシモ) ~ 愛がすべてさ 」
武道館ライヴの後にメンバーの脱退などがあり、なにかとゴタゴタしていたハウンド・ドッグ。
「もうこれで終わりかもしれない。悔いのないように」という決意でアルバムを作り、その集大成として臨んだのが、今となっては語り草となっている「嵐の西武球場ライヴ」でした。
木曜日は、トラブル・アクシデントが続出した、この「伝説のライヴ」を振り返っていただきました。
また、ラジオパーソナリティーとしても人気だった大友康平さんに「セイヤング」や「スクールズアウト」での裏話もお聞きしています。

11月09日(金)「 スローモーション 」
"俳優・役者"としての顔も持つ大友康平さん。
初めて映画に出たときには「もう二度とやらない!」と思ったそうですが、今では、音楽とはまた違う表現方法として興味があるそうです。そんな大友康平さんが新たな表現方法として取り組んだのが「 J-STANDARD BALLADS 」というカヴァーアルバム。
最終日は、このアルバムのコンセプトや聴きどころを御本人の口から語っていただいております。


<大友康平>
1976年、東北学院大学在学中に学校の仲間とHOUND DOGを結成し、1980年にメジャー・デビューを飾る。軽快なロックンロールと重厚なバラードを武器にライブでは絶大な評価を得る。'85年シングル『ff(フォルテシモ)』が大ヒット。その後『Only Love』『BRIDGE』など数多くのヒットを生み出し、アルバム『GOLD』『BRIDGE』はオリコン1位を獲得。ライブでも武道館15日連続公演といった記録だけでなく、HIROSHIMAピース・コンサート(チャリティ)を10年間行い続け、被災者施設を建設するなど、日本のロック文化を常に担い続けてきた。また、数多くのバラエティドラマや映画にも出演し、役者としての評価も高い。

10月29日~11月2日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、加瀬邦彦さん

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10月29日 月曜日
木材輸入店で育った加瀬さん。家ではよく洋楽が流れていたそうです。父母姉がピアノが弾けるのに自分だけ弾けない。ピアノ教師が来ていたがやることといえばレッスンではなくてプロレスごっこ。自由奔放な加瀬少年がある日、高校の帰りに湘南電車で藤沢から乗ってくるかわいい子に遭遇。その後ドラマのような展開でその女性と再会。彼女はなんと加山雄三さんの妹でした。

10月30日 火曜日
加山雄三さんの妹とお付き合いをしながらも、加山雄三さんと仲良くなり、ギターを教えてもらう。大学生になって学生バンドを組むことに。そのころホリプロの社長と出会うチャンスがあり、とんとん拍子でプロデビュー。そのバンドにかまやつひろしさんがいた。バンド解散後、翌日からスパイダースにかまやつさんと移籍。3ヵ月後には寺内タケシさんのバンドに加入。ところが、ビートルズ日本公演の前座に決まったのに脱退してしまう。理由はビートルズが見たいから。やめたあと、後ろめたさからバンドを組んだ。それがワイルドワンズだったのです。

10月31日 水曜日
バンドを辞めて働いていないのにプロダクションから給料をもらっていた加瀬さん。
これじゃ申し訳ないということでフィーリングが合う人たちを集めてワイルドワンズを結成。合宿をしたがあまりの下手さに愕然。その後葉山マリーナで演奏しているうちに形になってきました。2ヵ月後にはレコーディング。それが「想いでの渚」ジャケット写真が気に入らなかったから変えてくれと頼んだら「10万枚売れたら変えてやる」といわれた。本当に10万枚売れて、写真が換わることになった。でも本当はこの曲はB面候補だったのです。

11月1日 木曜日
ワイルドワンズを1971年に一度解散。その後、作曲を依頼されたのがきっかけで沢田研二のプロデュースをすることに。カサブランカ・ダンディーやTOKIOなど大ヒットを連発。落下傘や化粧、衣装などで大衆の度肝を抜きました。今までにない歌謡シンガーにしたかったと加瀬さん。楽しさもあったが次のジュリーはどうなる?という生みの苦しみもかなりあった。TOKIOのシングルカットはスタッフに反対されたが強引に押し切った。落下傘は巨大扇風機で広げていたためジュリーはその風に耐えながら歌っていた。

11月2日 金曜日
まさかのワイルドワンズ再結成があり、新曲もリリース。
その後、ケネディーハウスというライブハウスを作ります。ワイルドワンズは月に一度
そこでライブをやり始めました。それが今もバンドが続いている原動力なのかもしれないと加瀬さん。加山雄三さんも毎月ノーギャラで出演。53歳のとき食道がんが見つかる。その後、メンバー全員ががんを経験する。全員ががんの経験者でこれだけ長いことバンドやっているのは自分たちだけではないかと思っている。最近ではももクロと競演。ステージで熱いパフォーマンスを見せて話題になりました。これからも新しいことに挑戦しながら車椅子になってもワイルドワンズはやり続けたいそうです。

<加瀬邦彦>
1963年に「スパイダース」加入(約3ヶ月間在籍)、その後1966年まで「寺内たけしとブルージーンズ」に参加し、この年の7月に「ザ・ワイルドワンズ」を結成。
12弦ギターは、ワンズサウンドの要となる。
解散後は、作曲家、沢田研二プロデューサーとして活躍。
現在、銀座のライブハウス(ケネディハウス)のオーナー、「加山雄三&ハイパーランチャーズ」のプロデューサー。
60年代ミュージックシーンのバイブルともいえる自伝「ビートルズのおかげです」を著すなど多方面で活躍中。

10月22日~10月26日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の田畑智子さん

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10月22日(月)「 そんなつもりじゃなかったのに...。 」
京都の料亭の娘として生まれた田畑智子さん。ご両親の仕事柄、なかなか遊んでもらえなくてちょっと不満だったそうです。そんな田畑さんの少女時代は、人前に出ることが苦手で内気な少女だったそうなんですが、学校の夏休みを利用して「ちょっと映画に出れたらいいなぁ...。」なんて淡い期待を胸に、オーディションを受けた所、見事に映画「お引越し」の主役を射止めるのですが、田畑さんの返事はなんと「NO!」。「そんなつもりじゃなかった」から女優としての人生がスタートするのでした。


10月23日(火)「 田畑智子 女優の芽生え 」
負けず嫌いの田畑智子さん。最初は嫌で嫌で仕方なかった「お引越し」の現場が最後には恋しくなっていたそうです。その後は学業に専念するため、また学校からのお達しもあった事もあり仕事は控えていたのですが、有名になった田畑さんの下には、いくつもの出演のオファーがあり、休みを使ってこっそり仕事してたんだそう。また、「女優の道で生きていこう!」と、決意するまでのエピソードを教えていただきました。


10月24日(水)「 連続ドラマ小説 私の青空 」
田畑智子さんのご出演作品のひとつ、NHKの朝ドラ「私の青空」。今回も主役が決まった時、「えーできるかなー?」なんて、やっぱり後ろ向きなスタートだったそう。しかし、今回の現場は、どっぷりとお芝居に浸る環境だったそうで、それがまた楽しかったとお話してくださいました。NHKの連続ドラマ小説「私の青空」のヒロインを射止めるまでの話や、作品にまつわるエピソードをお聞きしました。


10月25日(木)「 田畑智子は語る、普通が難しい 」
2004年に10年ぶりの映画「隠し剣 鬼の爪」、「血と骨」に出演をされます。まず、「隠し剣 鬼の爪」の現場では「普通に○○をやって」と、田畑智子さんはよく注意され、これが田畑さんにとっては、非常に難しく「普通って何??」と自問自答の世界に入り込んでしまったそうです。また「血と骨」の現場では、北野武さんの演じる役と映画のストーリーも相まって、カットの声がかかっても、手の震えが止まらないくらい恐かったと語っていました。同じ年にまったく違う映画を出来た事がとっても自分の糧になったという、田畑智子さんの体験談をお話いただきました。


10月26日(金)「 田畑智子、チャレンジなう! 」
「20代、自分の進む道に悩み、30代はチャレンジの年!」と語る田畑智子さん。それを象徴するかの様に、田畑さんはフルヌード写真集を出版されます。しかし撮影当初は「ちょっときわどい写真程度...」という感じだったそうなのですが...。そして、映画「ふがいない僕は空を見た」で演じる役柄や作品の魅力など、ちょっぴり照れながらお話をしてくれました。最後は、田畑智子さんの今後の目標などもお聞きしています!


<田畑智子>
1993年、映画『お引越し』でデビューし、その年の映画新人賞を総なめにする。その後、TVドラマ『小石川の家』、向田邦子シリーズ等、久世光彦ドラマに数多く出演し、2000年には、NHK朝の連続テレビ小説『私の青空』のヒロインに抜擢され、一躍人気に。2003年に、『ニンゲン御破産』で初舞台を踏む。現在は、舞台・映画などで幅広く活躍。

10月15日~10月19日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、歌手の髙橋真梨子さん

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10月15日(月)「髙橋真梨子さんの音楽のルーツ」
髙橋真梨子さんは、博多で子供時代を過ごしました。お父さんは病弱で、お母さんが仕事に出ていたため、一人で過ごすことが多い子供でした。
人とコミュニケーションをとるのが苦手だったという真梨子さんですが、TVに出るような歌手になりたいと思っていました。しかし、サックスプレーヤーであったお父さんは、もっと本格的な方が良いと言い、14歳の頃JAZZボーカルのレッスンを受けるようになりました。
レッスンは厳しかったのですが楽しく音楽仲間もでき、博多のプロダクションの勧めで、16歳の時、真梨子さんは上京することになります。

10月16日(火)「東京から博多、そして再び東京へ」
上京し、レッスンを受けていた髙橋真梨子さんは、東京は嫌だと博多に戻って音楽活動をしていました。でも、いろいろな人が真梨子さんをスカウトしに博多にやってきました。その中でもペドロ&カプリシャスのペドロ梅村さんとヘンリー広瀬さんはしつこく、23歳の時に、1年間だけの約束で再上京することになります。しかも、「髪は切らない」「個人的なことは束縛しない」といった約束までしていました。
真梨子さんは当時を振り返って「横柄だった」と言います。でも、音楽はペドロさんに合わせる、絶対に遅刻をしないなど、プロのシンガーとしての心も持ち合わせていたのだそうです。

10月17日(水)「バンド活動&ソロシンガーとして」
髙橋真梨子さんは、1年でペトロ&カプリシャスを辞めて博多に帰るつもりでした。しかし、ちょうど1年が過ぎようとした頃に「ジョニィへの伝言」がヒットして帰れなくなってしまいます。次の曲「五番街のマリーへ」もヒットした真梨子さんは、もう、博多へ帰ることをあきらめて、結局ペトロ&カプリシャスのボーカルを6年半務めることになりました。
その後、真梨子さんは博多へ帰るつもりで居ましたが、ある事務所から声が掛かり、ヘンリー広瀬さんの助けを借りてソロで歌い始めます。1曲目の「あなたの空を跳びたい」を唄った頃、真梨子さんは、歌で自分の世界を作りたいと思いはじめていました。

10月18日(木)「髙橋真梨子さんのヒット曲の数々」
ソロで歌うようになった真梨子さんは、不本意ながらも出場することになった東京音楽祭にあわせて、「for you...」 という新曲を発表します。この曲も始めは売れませんでしたが、長い長いロングヒットとなりました。
 最初から注目されたのは「桃色吐息」、少々卑猥な感じの曲ですが、真梨子さんなら大丈夫という作詞の康 珍化(かん ちんふぁ)さんの言葉で思い切って歌ってみたら、同性に長く愛され続ける、真梨子さんの一番のヒット曲になりました。
ライブではお客さんから元気をもらっている!と真梨子さんは言います。そして、来てくれたファンのために、常に体調に気を使っているのだそうです。

10月19日(金)「プライベートについて」
髙橋真梨子さんの旦那さんはヘンリー広瀬さん。公私共に大切な、真梨子さんにとっては無くてはならない大親友だそうです。人との会話を大切にする、私とは正反対の人だと真梨子さんは笑って言います。
真梨子さんはスタンダードナンバー一杯のアルバムを発表しました。お父さんに教わった歌、若いときに博多で唄っていた歌など、思い入れたっぷりの曲が入っています。
いつも真梨子さんは、「明日シンガーをやめるかも知れない」と思いながら若い頃から歌を唄っていたのだそうです。でも真梨子さんは、ここまできたのだから、一歩一歩前に進んで行きたいと、真梨子さんは笑って話してくれました。

<髙橋真梨子>
1949年3月6日、広島県に生まれ、福岡県で育つ。ジャズ・プレイヤーの父親の影響でジャズ・ヴォーカルを志す。72年ペドロ&カプリシャスの2代目ヴォーカリストとして加入。72年「ジョニーへの伝言」がヒット。その後「五番街のマリーへ」がヒット。78年ソロ・シンガーへ転身し、代表曲は「あなたの空を翔びたい」「桃色吐息」「for you・・・」「遥かな人へ」などのバラードが主体。93年のニューヨーク・カーネギーホールをきっかけに海外公演も行なっている。

10月8日~10月12日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の児島美ゆきさん

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10月8日(月)「意外な真実、教えます ~えっそうだったんですか?児島さん!?~」
昔ながらの元気な少女時代を過ごしたという児島美ゆきさん。
子供の頃はテレビがあるだけで嬉しかったという児島美ゆきさんは、
「自分はテレビの世界で仕事をする人になるの!」と、
幼心にも芸能界に飛び込む事を核心していたんだそうです。
恒例の初恋の話をしてみると、ハニカミながらも、
思い切ってこれまでの好みのタイプのお話をしてくださいました。
そして、最後には意外な事実を教えていただきました!

10月9日(火)「ハレンチ学園でデビュー!~パンツばかりですいません児島さん!~」
児島美ゆきさんの初の主演を飾った作品といえば「ハレンチ学園」。
普通、年頃の女性だったら、抵抗はあるものだと思うのですが、
意外にも、児島さんにはすんなりと受け入れられたそうです。
映画でスタートした時と、テレビで始まった時とでは、
スカートめくりをされた時の為に、児島さんのちょっとした工夫があったようで...。
ハレンチ学園にご出演されていた当時のお話をお伺いしました。

10月10日(水)「テレビジョッキーと土居まさる!~児島さんの光と影~」
ハレンチ学園を経て、テレビジョッキーに出演されるようになった児島美ゆきさん。
レギュラーをゲットする裏側には、「あるものが○○だったから!」だと教えてくれました。
司会だった土居まさるさんとラジオ番組もご一緒で付き合いが長かったからこそという、
児島さん流の土居まさるという人間の観察結果を教えていただきました。
ただ、その後、10年近く芸能界から姿を消すのでした...。
テレビジョッキーについてと、児島美ゆきさんの心の闇についてお聞きしました。

10月11日(木)「北の国から ~児島さんの思い出と邦衛さんのスゴイ所~」
ドラマ「北の国から」に「こごみ」役でご出演された児島美ゆきさん!
出演陣とのエピソードや出演・スタッフ陣との交遊録など、
当時の様子を思い出しながらお話をしていただきました。
「現場はどうでしたか?」という質問に「微妙」という返事が!?
その言葉の真意は...。
まるまる「北の国のから」です!

10月12日(金)「児島さんのプライベート ~男と女・理想と現実はすれ違う~」
お仕事がお休みの日は、お友達と山歩きを楽しんでいるという児島美ゆきさん。
ゆっくりと自然を満喫するのがリラックス出来る一番の材料なんだとか。
そんな中、またまた恋愛についてお話を切り込んでいくのですが、
現在のパートナーは、憧れの理想とはまったく違うそうで...。
そして、児島さんなりのイケメン論と、
野村邦丸の「北の国から」への熱き思いを爆発させてしまいます!
最終日は、児島美ゆきさんのプライベートを中心にお聞きしました!

<児島美ゆき>
1952年、東京出身。

★デビュー作品
映画「ハレンチ学園1.2.3」主演

★代表作品
北の国から (フジテレビ)(1983)
男はつらいよ30話 (映画)(1983)
1970ぼくたちの青春 (テレビ)(1992)

10月1日~10月5日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、シンガーソングライターの尾崎亜美さん

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10月1日 月曜日 「夢見がちな少女、ピアノと出会う」
1957年の早生まれ、邦丸さんとまったく同い年の尾崎さん。少女時代はとても夢見がちで、いろんな妄想を楽しむ女の子でした。
クラスメートを驚かせようと、ウソをついてばかりいたそうです。
小学校低学年のときにピアノを習い始めたのですが、当時の先生が、かなり変わった教え方をする人でした。
シンガーソングライター尾崎亜美の原点となる、音楽との出会いのお話です。

10月2日 火曜日 「プロミュージシャンを目指して」
自由な創作を奨励するピアノの先生のおかげで、少女時代から作詞作曲を始めていた尾崎さん、中学・高校でも音楽活動にのめりこみます。
オーディション番組がきっかけで、1976年にシングル「瞑想」でデビュー。
デビュー曲のレコーディングで、とてもうれしい出来事がありました。
火曜日は、尾崎さんのプロデビュー前夜までのお話です。

10月3日 水曜日 「ヒット曲『マイ・ピュア・レディ』、そして楽曲提供」
尾崎さんのデビュー時のキャッチフレーズは「ポスト・ユーミン」。
尾崎さんにとってユーミンはとても可愛がってくれる「姐さん」的存在だったそうです。
デビュー翌年に、化粧品のCMソング「マイ・ピュア・レディ」が大ヒット。
さらには他の歌手の方への楽曲提供も始めます。
尾崎さんの音楽活動が一気に拡がっていく時期のお話です。

10月4日 木曜日 「オリビアを聴きながら」
尾崎さんの楽曲提供の中でも、誰もが認める名曲といえば杏里さんの「オリビアを聴きながら」。
曲を書くにあたり、尾崎さんは杏里さんを自宅に招いていろんなお話をして、2人のコミュニケーションの中から曲を完成させました。
松田聖子さんに提供した「天使のウインク」も大ヒット。
木曜日は、ヒット曲にまつわるエピソードをたくさん聞かせていただきました。

10月5日 金曜日 「尾崎さんのプライベート」
尾崎さんの旦那様はベーシストの小原礼さん。
小原さんはLAで音楽活動をしていたため、結婚式も現地で挙げました。
結婚式当日、なんと牧師さんがダブルブッキングで来れなくなり、新婦側の客として来ていたあのデーモン小暮閣下が急遽代役を務めることに・・・いったいどんな結婚式になったんでしょう?
デビュー36周年を迎え、秋はライブが目白押しの尾崎さんの今後の抱負も伺っています。


<尾崎亜美>
1976年、シングル「冥想/冬のポスター」でデビュー。
同年8月5日 ファーストアルバム「シェイデイ」リリース。
代表曲として「冥想」、「マイ・ピュア・レディ」、「初恋の通り雨」、「21世紀のシンデレラ」、「My Song For You」、「蒼夜曲(セレナーデ)」など、多数が知られている。
また、デビュー3年目より他のアーティストへの楽曲提供を行い、現在のプロデューサーの草分け的存在となる。
主なヒット曲は、南沙織「春の予感」、杏里「オリビアを聴きながら」、高橋真梨子「あなたの空を翔びたい」、松田聖子「天使のウィンク」、観月ありさ「伝説の少女」など日本のミュージックシーンを支えている。

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