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4月22日~4月26日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の高岡早紀さん

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4月22日 月曜日 「バレエに熱中した少女時代」
1972年生まれ、神奈川県藤沢で育った高岡さん。少女時代はバレエに熱中していました。
バレエで留学してみたいと、少女らしい夢を抱いた高岡さん、靴のメーカーであるマドラスのキャンペーンガールのオーディションを知り、留学資金を稼ぎたいと、何の予備知識もなく応募してしまいました。そこで待っていたのは・・・

4月23日 火曜日 「アイドルとして芸能界デビュー」
約4600人の中からグランプリに選ばれ、完全にレールに乗ってしまった高岡さん、15才で岡田真澄さんとのCM共演で芸能界デビューします。何がなんだかわからないうちに映画、舞台と続き、高岡さんの初期の代表作となった映画「バタアシ金魚」に出演。今まで岡田さんなど大物ばかりに囲まれていた高岡さん、初めての若い共演者たちとの仕事でとても楽しかったそうです。

4月24日 水曜日 「女優として転機になった作品」
高校を卒業して、自分を見つめなおすため、ロンドンに2ヶ月ほど滞在した高岡さん。
現地ではバレエと英会話の学校に通いました。帰国後、出会った作品が、かの深作欣二監督の映画「忠臣蔵外伝 四谷怪談」。この撮影で監督に毎日怒られ、苦しみ、鍛えられた結果、映画賞の主演女優賞を総なめにする素晴らしい評価を受けました。今日は、女優として転機を迎えた頃のお話です。

4月25日 木曜日 「高岡早紀さんと子供たち」
高岡さんは23才で結婚、24才で長男、翌年に次男、そして2010年に長女を出産と、3人のお子さんのママでもあります。女優としてこれからの若い時期での結婚、出産、子育ても、自分でこうと決めたら意志の固い高岡さん、当然のことだと語ります。いま子供たちは15才、13才、2才。ママ・高岡早紀とはどのような親子関係なのでしょうか?

4月26日 金曜日 「これからの高岡早紀さん」
4月27日から公開の主演映画「モンスター」は、醜い見た目で不幸な生い立ちの主人公が、整形を繰り返して美女に生まれ変わるというストーリー。2時間かけた特殊メイクは、映画原作の百田尚樹さんが、高岡さんだとわからなかったぐらい激しい変貌ぶりだったそうです。今後の抱負についても伺っています。

<高岡早紀>
誕生日 12月3日
星座 いて座
出身地 神奈川
血液型 A型
身長 163cm
特技 乗馬
代表作品
・忠臣蔵外伝 四谷怪談 (映画)(1994)
・KYOKO(映画)(1996)
・真実一路 (フジテレビ)(2003)
・大奥・華の乱 (フジテレビ)(2005)

4月15日~4月19日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、10時台と12時台に2人のゲストが登場!

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★10時台は佐藤竹善さん!

4月15日(月)「佐藤竹善さんの音楽への目覚め」
いわゆるガキ大将系の少年だったという佐藤竹善さん。
そんな少年が音楽に目覚めたキッカケは、ビートルズの曲を聴いてからなんだそうです。その後は、クイーンにハマり、ジョンディーコンに憧れ、ベースを始めます。
当時、柔道で国体の強化選手の候補にも選ばれる程、ツワモノだった佐藤竹善さんが、音楽の道へ進む事になった理由をお聴きしました。

4月16日(火)「プロ歌手になるまでの縁。」
数々のアーティストに衝撃を覚え、「プロになる!」と決意し、青森から東京に上京し、ガムシャラに突き進みます。しかし、まったくの手探りの状態でスタートだった為、余儀無くされた貧乏生活をはじめ、TOTOを目指して曲作りしていたのに、まったく見当違いな物が出来たなど、当時の思い出をお話いただきました。今日はシングライクトーキングの下積み時代のお話です。

4月17日(水)「シングライクトーキング、デビュー」
レコード会社と契約した佐藤竹善さん。
しかし、業界の素人なんだから勉強しなさいという事で楽曲提供といった作業を続けていた日々。
そんな中、佐藤竹善さんにチャンスがめぐってきます。それは当時、みんなが知っていたある「CM」の歌だったそうです。
またデビューアルバムを製作した時に、あれは若気の至りと反省するある出来事とは一体...。
今日は、シングライクトーキングのデビューにまつわる話をお聴きしました。

4月18日(木)「シングライクトーキングとソロ活動。」
憧れのジェフ・ポーカロさんとライブで競演した時、会場には自分たちのファンがまったくおらず、自分たちのライブなのに、アウェー状態だったという事態を受けて、これまでのバンド活動に対する考え方を見直したそうです。
デビュー7年目を迎えた頃、アルバム「エンカウンター」で、初めて1位を獲得しますが、当時、売れても20位のあたりをうろうろしていた為、自他共に「何故?」と首をひねってしまったそうです。
また、ソロ活動をスタートさせた佐藤竹善さんの心境などもお聴きしました。

4月19日(金)「ラジオ大好き竹善さん」
「ラジオがなきゃ眠れない...。」そんな佐藤竹善さんは、特にトーク番組は好きだと教えてくれました。そんな佐藤竹善さん、当番組のコントコーナー「お気楽野村係長」ファンで、すでにご出演まで済まされています。
ラジオが大好きな佐藤竹善さんのシングライクトーキングが、25周年アニバーサリーライブが4月末に行われるということで、そちらの情報もお聴きしています。


<佐藤竹善>
'88年、SING LIKE TALKINGのメンバーとしてデビュー。現在までに11枚のオリジナル・アルバムを発表し、そのノン・ジャンル、ノン・カテゴリーの高品質な音楽は5枚目のアルバム「HUMANITY」以降すべてのアルバムをオリコンのTOP20に送りこみつづけ高い評価を得ている。そうしたバンドとしての活動と平行して、'95年に発表したアルバム「CORNERSTONES」から本格的にソロ活動開始。その卓越したボーカルとコンポーサーとしての才能は他を圧倒するものがある。


★12時台は「西田ひかる」さん

4月15日 月曜日 「子供の頃の話」 
西田ひかるさんは藤沢市で生まれました。すぐにお父さんの仕事の関係でロサンゼルスに越しましたが、12歳ぐらいまでは男の子と間違えられるような、日焼けした、アフロヘアーの女の子でした。西田さんはこの頃、スティーヴィー・ワンダーの「愛の園」という曲に子供コーラスとして参加しています。

4月16日 火曜日 「芸能界デビュー」 
日本に帰国した西田さんは、タレントを探していた事務所の社長にスカウトされ、オーディションを受けまくりますが、うまくいきません。でも、日本エアシステムのキャンペーンガールに起用されると、ファミリーミュージカル「小公女セディ」の主演、シングル発売と、どんどん道が開けていきます。高校、大学と学校を休むこと無く芸能活動と両立させた西田さん、「学校が好き、学校が私を安定させてくれた」けれども、睡眠不足でいつも眠かったのだそうです。眠い毎日のエピソードを西田さんは話しくれました。

4月17日 水曜日 「忙しいアイドル生活」 
ドラマ「デパート! 夏物語」の主題歌、「ときめいて」が大ヒットした西田さんはその年の紅白歌合戦にも出場しました。アメリカ暮らしの長かったひかるさんですが、毎年、年末年始は日本に帰ってきて紅白を見ていたので、やっぱり紅白の舞台は緊張したのだそうです。
 「山田ババアに花束を」で役者としていくつもの賞を受賞、ミュージカル「楽園伝説」にも主演した西田さんは忙しい日々を送っていましたが、そんな西田さんの楽しみは、なんと喫茶店でのひとときでした。

4月18日 木曜日 「カリフォルニアでの生活」
ボランティア活動に熱心な西田さんは、長野オリンピックのピースアピール・アンバサダーに選ばれます。この時、西田さんはオリンピックに自分が参加できたことが嬉しかったのだそうです。
その後、結婚をした西田さんは旦那さんの仕事の都合もあってカリフォルニアに移り住みます。親から離れてはじめての生活、自分で自分のスケジュールを組めると気がついた西田さんは、のびのびと暮らし、刺繍などいろいろな趣味をはじめました。
そんな西田ひかるさんは、子育ても楽しんでいます。でも、もしも神様が居るのなら、一つだけ子育てについてのアドバイスが欲しいのだそうです。これには(孫が2人居る邦丸さんも)思わず納得!

4月19日 金曜日 「これからやりたいこと」 
数年前に西田さんは野菜ソムリエの資格を取りました。いろいろな野菜が一年中溢れている中、旬の野菜が一番安くて一番栄養がある、この感覚を大切にしたいのだそうです。
西田さんは11年ぶりに新曲、そしてマキシシングルをリリースします。一度はお願いしてみたかった人たちに25周年を記念する曲作りをお願いしたのだそうです。
これからのことについて、西田さんは、まずは元気でいること、そして、30周年に向けて続けられることと話してくれました。もうひとつ、子育てが一段落したら、西田さんは舞台をやりたいのだそうです。まだまだやりたいことが多い西田ひかるさんです。


<西田ひかる>
 '73年~'85年、アメリカ・ロサンゼルスで暮らす。'88年「フィフティーン」(でレコードデビュー。同時にミュージカル「小公子セディ」に主演。同テレビアニメのテーマソングを歌うなど恵まれた芸能界スタートを果たす。以来、持ち前の健康的な明るさと、何事にも前向きに努力する姿勢が評価され、歌手活動と合わせて、多くのテレビドラマ・ミュージカル・舞台などに出演し、その演技力は活動分野の広さと共に高い評価を得ている。アメリカ時代に体験したボランティア活動にも熱心で、年2回行っていたチャリティーバザー他、'98年2月に行われた長野冬季オリンピックでは、ピースアピールの長野オリンピックアンバサダーにも選ばれている。2002年5月に結婚。

4月8日~4月12日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、九里一平!

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4月8日月曜日 「苦しかった子供時代」
京都生まれの九里さん。父は戦争、母は九里さんを生んだ後なくなり、祖母と伯母に育てられました。吉田竜夫、健二、九里さんの3兄弟は苦しい子供時代を過ごします。兄の竜夫さんは絵の天才といわれ、17歳ぐらいから挿絵師として働いていました。九里さんも近所のお寺の地面に夢のある絵をかいていました。それはあたかも記念写真のようで、必ず自分の絵をを書き込んでいたのだそうです。

4月9日火曜日 「東京進出 九里一平誕生」
兄と同じ挿絵師を目指して兄のところを頼りに上京。手伝ってくれた友人から「お前はクリクリしているから九里でいけ」という話になりペンネームになったのだそうです。
その後、貸本の漫画を描いたりしているうちに東映からアニメーションの制作依頼の電話がかかってきたのでした。

4月10日水曜日 「マッハGOGOGO」
東映の作品を無我夢中で作った吉田三兄弟。とにかくやってみよう。でも絵のうまさはだれにも負けないという心意気で宇宙エースを制作。その後、マッハGOGOGOを制作。デザインはモチーフもなく、全くのオリジナル。その後、TOYOTAが展示用として実車を作ったりしたそうです。

4月11日木曜日 「みなしごハッチへの思い」
ペットや動物、昆虫も大好きな九里さん。高度成長時代に昆虫採集がブームになりましたが、その時、昆虫を擬人化したら、子供たちが標本を作製のピンを刺すときにいろいろと思いを巡らせてくれるのではないか、そして公害問題なども取り入れらると思い、みなしごハッチが生まれたのでした。タツノコプロの社長を退いた思いについても語っていただいています。

4月12日金曜日 「これからの九里一平」
タツノコプロを退いたあと、チャレンジしたいのは1枚の絵で何かを訴えられるものを書きたい。無から有を生むことの楽しみは何よりも楽しいと語る九里さん。九里一平さんの作品集がこのたび初めて出されましたが、これは布石で、次に新しいものを出したいと考えてますと制作意欲がますます盛んな九里さんでした。

<九里一平>
吉田竜夫、健二と3兄弟でタツノコプロを設立。マンガの代表作として『マッハ三四郎』『紅三四郎』『ファイター健』『弾丸児』など多数。タツノコアニメでは、プロデューサー・キャラクターデザイナーなど、キーパーソンとして活躍。

4月1日~4月5日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、ALICE!

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4月1日(月)「 ALICE、再び... 」
1981年に活動休止を発表したアリス。今では珍しくもなんともなくなった"バンドの活動休止"ですが、当時は「やっぱり仲が悪かったんだ!」などと揶揄する声も聞こえてきたそうです。まぁ、そこには、そう思われても仕方のない、3人の行動パターンがあったわけですが...。月曜日は、アリス活動休止から、今年、5度目の活動再開に至った経緯をザッと振り返ります。

4月2日(火)「 チンペイさんの好奇心 」
アリスの活動停止後に谷村新司さんが最初に手掛けたのが、アジアの国々を音楽で繋ぐということでした。その結果、今や、谷村新司さんはアジアを代表するアーティストのお一人となられ、アジアのあちらこちらを忙しく飛び回っていらっしゃいます。しかし、いまだに好奇心旺盛な谷村新司さんが、そんな真面目な話だけで終わるはずもなく...。火曜日は、谷村新司さんの「真面目な面」と「オチャメな面」の2つをお楽しみ下さい!

4月3日(水)「 ベーヤンの歌 」
自分の力を試してみたいからと、アリスの活動停止を提案してまでソロ活動に移行した堀内孝雄さんでしたが、しばらくの間は空回りの日々が続いていたそうです。そんな時、萩本欽一さんの助言がきっかけで何かが吹っ切れたのか、その後は徐々に仕事も増え始め、ヒット曲もぽつぽつと出始めたのですが、巷では「ベーヤンが演歌にいっちゃった...」と揶揄する声もチラホラ。水曜日は、堀内孝雄さんが「挫折していた谷間の部分」についていろいろとお話をして下さいました。

4月4日(木)「 キンちゃんのリズム  」
ライブでドラムを叩いている時はアドリブのオカズを多用するタイプだという矢沢透さん...キンちゃん。「いつも同じだと飽きちゃうし、アドリブがバッチリと決まるとボーカルの二人がノッてくれるから」というのが、その理由だそうです。木曜日は、そんな3人の「音楽での会話」、また、キンちゃんが作る「爆笑デモテープ」についてのエピソードなどを伺っています。

4月5日(金)「 熟成されたALICE 」
4月10日に発売されるALICEの26年ぶりのオリジナルアルバム。このアルバムを引っ提げての全国ツアーでは47都道府県すべてを回られるそうなのですが、アラ還の3人、果たして体力は大丈夫なのでしょうか? 最終日は、ニューアルバム発売と全国ツアーについての意気込みなどを語っていただきました。後半では、リスナーの皆さんがALICEのメンバーと直接触れ合えるかもしれないイベントの告知もありますのでお聴き逃しなく!

<ALICE>
谷村新司(1948年12月11日生まれ)=リードボーカル、ギター、堀内孝雄(1949年10月27日生まれ)=ボーカル、ギター、矢沢透(1949年2月6日生まれ)=ドラム。1971年結成、72年シングル『走っておいで恋人よ』でデビュー。『遠くで汽笛を聞きながら』『冬の稲妻』『チャンピオン』『狂った果実』など多くのヒット曲がある。

3月25日~3月29日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の長谷直美さん

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3月25日 月曜日 「デビューのきっかけ」
1956年東京生まれ、邦丸さんと同学年の長谷さん。子どもの頃、お人形遊びをした記憶はいっさいなく、男の子と一緒に遊びまわっていました。17歳のときに「ミス・エールフランス・コンテスト」に応募し、最終審査まで残ったことでスカウトされデビューします。自ら「他力本願」とおっしゃる長谷さんの女優人生のはじまりです。

3月26日 火曜日 「俺たちの朝」
女優としてデビューした長谷さん、ヒットドラマ「俺たちの朝」のカーコ役として大きな人気を博します。このドラマは勝野洋さん、小倉一郎さんと男女3人でシェアハウスに住むという設定。今では大酒飲みという長谷さんに、お酒の飲み方を教えてくれたのは、何を隠そう勝野さんだそうです。当時のエピソードを語っていただきました。

3月27日 水曜日 「ニューヨークへの留学」
レギュラー出演していたドラマ「太陽にほえろ」が終了し、ニューヨークの語学留学へと旅立った長谷さん。アパートのベランダに泥棒が入ってくるなど、かなり刺激的な日々を送りました。そして30代の半ばを迎えて、女優としてのイメージチェンジがなかなかうまくいかず悩みます。
邦丸さんも驚いたあの「ヘアヌード写真集」は、その頃、自分に区切りをつけようと挑んだ企画だったそうです。

3月28日 木曜日 「病気との闘い」
男ばかりに女ひとり、という体育会系ドラマに出演することが多かった長谷さん。他の現場で女優さんと一緒になると、自分はなんて太っているんだろうと気が付きます。たまごダイエットなどいろいろな過酷なダイエットに挑戦した結果、精神的にも肉体的にも参ってしまいます。さらに両親を相次いで亡くし、肝臓の病気にもかかり・・・今日は長谷さん、苦闘の日々のお話です。

3月29日 金曜日 「TV番組で大腸ガンが発覚!」
16年間パリで結婚生活を過ごした長谷さん。離婚して日本に戻り、女優として再スタートを切ります。TV番組の企画で人生初の人間ドックを受けるのですが、なんと大腸ガンが発見されます。ショックを受けるも、長谷さんは手術、闘病の様子も番組で撮ってほしいと申し出て、ドキュメンタリーとして放送されました。手術は成功、現在も精力的に仕事をこなす長谷さん、最後に今後の目標を教えてくれたのですが、これには所属事務所も含めて一同ビックリ!


<長谷直美>
17歳の時にミス・エールフランスコンテストで入賞し芸能界へ。
'74年にアイドルとしてシングル「私は天使じゃない」リリース。
'76年TVドラマ「俺たちの朝」のヒロイン滝村麻子(カーコ)役で女優として脚光を浴びる。
同ドラマの舞台である鎌倉にも注目が集まり、江ノ島電鉄から記念乗車券が発売されるなどの現象も起こした。
'78年にはTVドラマ「大追跡」に結城佳代子役でレギュラー出演。自身でカーアクションをこなすなど話題をふりまく。
TVドラマ「太陽にほえろ!」では'77年~'80年までは早瀬玲子役として婦人警官でセミレギュラー、'83年~'86年まで岩城玲子(マミー)役として刑事としてレギュラー出演をする。
他にも数々のヒットドラマ、映画に主演、出演し女優としての地位を確固たるものとする。
結婚後はフランスに移住し一線から退くが、'11年より演劇の勉強の為、ロンドンの演劇学校に入校。
'12年5月演劇学校を卒業、Trinity Guildhallを優秀な成績で合格しイギリス国内での演劇教師の資格を取得。
女優としてよりレベルアップして日本に帰国する。

3月18日~3月22日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、でんでんさん

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3月18日 「でんでんさんの子供時代」
名脇役のでんでんさんは、ゲートボール好きのお父さんとカラオケ好きのお母さんの間で1950年に福岡で生まれました。その頃のでんでんさんは、相撲をとったり、ちんどん屋を追いかけたりして毎日暗くなるまで遊んでいる、当時どこにでも居た子供でした。
子供の頃のでんでんさんはクレージーキャッツの物まねをやったりしていましたが、一番憧れていたのは渥美清さんだそうです。初めて渥美清さんの演技を見たときは、あまりの素晴らしさに笑うことも出来ずに見入ってしまったと、でんでんさんは話してくれました。

3月19日 「お笑いスター誕生」
渥美清さんに弟子入りしようとでんでんさんは上京しますが会うことはできませんでした。東京行きの夢を諦めきれないでんでんさんは、遠い親戚のつてをたよって丸井に就職し、4年間のサラリーマン生活をしました。
その後劇団ひまわりに入りますが、ここでは芽が出ないと感じたでんでんさんは半年劇団で辞め、友人とちり紙交換を始めた後、マージャンとパチンコの日々を送るようになります。
何かをしなくてはと思ったでんでんさんは「うわさのチャンネル」のオーディションに応募しますが、番組そのものが無くなると言う事で合格通知は来ませんでした。でも、次に応募したお笑いスター誕生では無事8週を勝ち抜きました。
でんでんさんは芸名の由来についても話してくれました。それは・・・

3月21日 「『冷たい熱帯魚』での村田役」
でんでんさんは「の・ようなもの」で映画デビューします。デビューは嬉しかったけれど森田監督からの指名でなかったのがちょっと残念と、でんでんさんはエピソードを語ってくれました。
でんでんさんの名前を一躍有名にしたのが映画、「冷たい熱帯魚」です。この時は賞をもらえた事がとてもうれしかったのだそうです。
でんでんさんは監督と役者の関係について、演出を役者任せにするのではなく、きちんと指導をして欲しいと話してくれました。そうでなければ役者一人の演技になってしまうからだそうです。

3月22日 「最新作『ひまわりと子犬の7日間』」
舞台挨拶で困るから最近は見ているけれど、御自身の出演作を見るのは好きではないと、でんでんさんは話してくれました。反省するところが多いのだそうです。
そんなでんでんさんの最新出演作が「ひまわりと子犬の7日間」です。この映画は「冷たい熱帯魚」とは真逆の、家族で安心して見られる優しい映画で、でんでんさんは、なんでもないけれどさりげない、犬を捕獲する保健所員を演じられています。
でんでんさんがこれから演じてみたいのは、「飢餓海峡」の伴淳三郎さんが演じた老刑事のような善良な人の役なのだそうです。でんでんが体から出て行って、役の人間が体に入ってくる、そんなことができる役者になりたいと、でんでんさんは話してくれました。


<でんでん>
1950年1月23日、福岡県出身。渥美清さんに憧れ弟子入りしたく高校卒業後上京。だが、もちろん不可。
30歳の時、素人でも参加できるお笑いスター誕生で『みんな!ハッピーかい?』等のネタで8週勝抜きを果たした。このテレビ初登場をきっかけに新進のコント作家、構成作家であった水谷龍二さんと出会い、以後水谷作品(舞台、TVドラマ)に欠かせない役者となる。と、同時に脚本家松原敏春さんとも出会い、TVドラマはじめ、舞台「渾身愛」三部作(`89年)、「流水橋」(`92年 芸術座 森光子主演)などでお世話になった。水谷龍二作・演出作品では「ある晴れた日の自衛隊」シリーズ(`94年~`99年)、「星屑の町」シリーズ(`94年~`08年)、明治座「居残り佐平次」(`02年)、「火焔太鼓」(`05年)、「うそつき弥次朗」(`07年)など、ほとんどの作品に登板。また、明治座出演作品には`09年「三平物語」(作 金子成人、演出 水谷幹夫)がある。
久世光彦さんのTVドラマにも数多く出演し、久世さん演出の新橋演舞場「浅草パラダイス」シリーズ(`98年、`00年、`01年)にも参加。永井愛さん作・演出作品に「やわらかい服を着て」(`06年 新国立劇場)、「かたりの椅子」(`10年 世田谷パブリックシアター)がある。

3月11日~3月15日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、相川七瀬さん

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3月11日(月)「学生時代の相川七瀬さん」
生まれてから中学生の頃まで総勢20人以上の大家族の中で育った相川七瀬さん。
家の中で本を読んでいるのが好きな子供だったそうです。
しかし、相川七瀬さんの両親が離婚した事が、自分自身が変わるきっかけになったんだそうです。
今日は相川七瀬さんの学生時代をお伺いしました。


3月12日(火)「プロ歌手になるまでの縁」
歌手になりたいと思っていた相川七瀬さんは中学生の頃、仲の良かった友達に誘われ、オーディションを受けにいった相川七瀬さん。そこで人生の師とも言える織田哲郎さんと出会います。
高校生に進学すると、織田哲郎さんから直接オファーがあったのですが、学業を優先する為にその場は断ってしまったそうです。その後、織田哲郎さんに相川七瀬さんから連絡を入れ直し、歌手への第一歩を踏み出す事になるのでした。
今日は、織田哲郎さんと出会った頃の話を中心にお話をお聴きしました。


3月13日(水)「相川七瀬、デビュー」
相川七瀬さんが19歳の頃に上京、1年後にシングル
「夢見る少女じゃいられない」でデビューすることになります。
当時の相川七瀬さん、「だっさい歌詞だなぁ...」と思っていたそうです。
しかし、自分の思いとは反対に曲は大ヒットを記録し、改めて、織田哲郎さんの事を「凄い人なんだ」と認識を改めたんだそうです。
今日はデビューシングル「夢見る少女じゃいられない」の話や、織田哲郎さんに対する想いなどお話いただきました。


3月14日(木)「走り抜けていたあの頃」
「恋心」を始め、ヒット曲をリリースした相川七瀬さん。
初めて大阪でコンサートをした時や武道館で感動のあまり泣き崩れてしまった母を見た時に「最大の親孝行が出来た」と実感が出来たんだそうです。
その後、すべてを出し切ってしまったと感じた相川七瀬さんは、色々な事をリセットしようと、長期休暇を取るつもりでドイツへと旅立ちます。
今日はヒット曲を連発していた当時を振り返っていただきました。


3月15日(金)「これからの相川七瀬さん」
2001年の誕生日に入籍され、その年の秋に出産を経験した相川七瀬さん。
新しく家族が出来た事で生活を改める良いキッカケになったんだそうです。
同時に歌手としての活動以外に、執筆業など幅広い活動を開始されます。
また、相川七瀬さんの最新アルバム「今事記」や音楽活動について、お話をお伺いしました。


<相川七瀬>
1995年「夢見る少女じゃいられない」でデビューして以来、現在までのCDトータルセールスは1200万枚を超えている。毎年7月7日には、「七瀬の日」と題したライブをSHIBUYA-AXで8年連続で実施中。また、音楽活動以外にも処女小説「ダリア」を上梓するなど、活躍の幅を多方面に広げている。デビュー15周年となる2010年には、ベストアルバム「ROCK or DIE」をリリース。その翌年には、新プロジェクトとして「Rockstar Steady」というバンドを結成。2012年9月に第3子を出産。2013年2月6日には"相川七瀬"としては、4年ぶりとなるアルバム「今事記」をリリース。

3月4日~3月8日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、淡路恵子さん

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3月4日月曜日「子供のころの話、戦争で疎開」
戦争で東京から学童疎開を経験。
おなかがすきすぎて家に手紙を書き続けたら、父親が迎えに来てくれた。東京に帰ったら大きな空襲にあい、ショックでそのころのことは あまり覚えていないそうです。子供のころは運動が大好きで鉄棒が何よりのお気に入り。その後、助産師の母親の勧めもあって医師を目指すならということで東京の第八高等女学校に入ることになります。

3月5日火曜日「レビューの世界との出会い」
とある日曜日に学校の友達とみんなで隠れてレビューを見てしまった淡路さん。
ミラーボールの輝きを見てこんなに素晴らしい世界があったのかと感激。その後、浅草の松竹座で朝から晩までレビューを見続け、「私はあそこで踊る人になりたい」と決意します。
研究生になったのですが、舞台に出る前に突然映画に出ることになってしまいます。

3月6日水曜日「三船敏郎さんが切ってくれたステーキ」
黒沢映画「野良犬」に出演することになり、大泉の撮影所に泊まり込みになります。
撮影が休みの時に三船敏郎さんが銀座の洋食屋に連れて行ってくれました。初めてビフテキを見て感激。さらにナイフとフォークの使い方がよくわからなく戸惑っていると、サイコロに切ってくれました。淡路さんにとって三船さんはいいお兄さんでした。

3月7日木曜日「21年間芸能界を離れて」
20歳のときにフィリピン人歌手ビンボー・ダナオと結婚(事実婚)。
別れたあと、中村(当時)錦之介と出会い結婚。中村の個人事務所が莫大な借金をかけ倒産、そして病に倒れてしまいます。女優を引退していた淡路さんは、全国でセミナーなどを開催して家計を支えていました。クラブの雇われママになったときは勝新太郎がハワイから駆け付け、ドル札でご祝儀を置いて行ったそうです。

3月8日金曜日「今、楽しいこと」
たばこもお酒もたしなむ淡路さん。いまさらやめる気もない。
酒の量は減ったが、昔はドラゴンクエストを始める前に、おつまみ、氷、酒を用意してから挑むのが何よりの楽しみ。でも酔うとどこでセーブしたのかわからなくなり悶々とするそうです。今年公開予定の四十九日のレシピに出演。相当しゃべっているのでぜひ見てほしいとのこと。どの現場でも今は一番年上だから責任を感じて演技するそうです。


<淡路恵子>
1933年、東京出身。
1949年、映画「野良犬」でデビュー。
主な代表作品
「駅前シリーズ」(映画)(1958)
「茂七の事件簿・ふしぎ草紙 (NHKテレビ)(2001) など

2月25日~3月1日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、由紀さおりさん

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2月25日 「子供のころの話」 
由紀さおりさんは桐生市で生まれました。両親が居ないと泣いて周囲を困らせてしまうような引っ込み思案な子供でしたが、横浜に転居した頃からだんだん変わっていきます。
お姉さんの安田祥子さんがひばり児童合唱団に入り、しばらくして由紀さんも入団します。当時、女の子二人のデュオは珍しかったので、あちこちから声が掛かったのだそうです。
由紀さんはお姉さんとハッピービーンズの名前でいろいろなCMソングも歌っています。まだ名前が発表されていない自動車のCMソングを練習したとき、仮の名前で歌ったエピソードを由紀さんは懐かしそうに話してくれました。

2月26日 「歌の道に悩んだ高校時代」 
高校に進学した由紀さおりさんは、音楽コースではなく普通コースに進学します。これは、お姉さんと同じ道を歩んでも、お姉さんを超えられないと思ったからだそうです。そして役者の道に進もうとして俳優座養成所を受けようとしますが、ちょうど公募が無い時期で、信頼していた高校の先生の助言に従って、短大に進学しました。
同じ頃、由紀さんはJAZZを習っていました。1年ほど習ったところで、人前で歌ってうまくなるものだというJAZZの先生の助言で、銀座のクラブでステージに立つようになります。歌を唄うのは好きだったけれど、その場所に行くのはいやだったと、由紀さんは思い出を語ってくれました。

2月27日 「夜明けのスキャット/女優業について」 
大ヒット曲 夜明けのスキャットは元々ラジオ番組のテーマ音楽でした。作曲してもらったメロディーに由紀さおりさんが歌詞をつける時に、起承転結のような流れを考えながらスキャットの形で歌ってみたところ、リスナーから問い合わせが殺到し、改めて歌詞をつけてレコーディングしたのだそうです。
「手紙」や「ルームライト」といったヒット曲が出た後、由紀さんはスランプに陥ります。いろいろと問題を抱えていた時期、お客さんの前で正直になれないのが辛かったのだそうです。
ところで、由紀さんはその頃から女優としての道も歩むようになりました。八時だよ全員集合の名台詞「チョーさんのばか」で注目されてから、家族ゲーム、歓喜の歌などで名演をします。由紀さんは、女優とシンガーは似ていると言います。セリフの間合いやイントネーション、自分が決めた役どころといった事柄は作曲に通じるのだそうです。

2月28日 「童謡コンサートとお姉さんへの思い」 
由紀さおりさんがお姉さんの安田祥子さんと童謡を歌うようになったきっかけは、紅白歌合戦の声が掛からなくなったことでした。紅白と同じNHKホールでコンサートをやりたいと考えた由紀さんは、姉妹のルーツである童謡もその中で披露する事にしました。
しばらくして童謡のレコードを出す時は教材扱いされました。制作数の少なさに驚いた由紀さんは、コンサートのギャラの代わりにレコードを手売りさせてもらう方法を考えつき、全国での出前童謡コンサートを始めました。
二人の童謡が広く受け入れられた理由として、曲を活かした歌い方をしたからだと由紀さんは話してくれました。由紀さおりのコブシは封印し、お客さんが作曲者の想像する情景に入れる余白を残したのだそうです。

3月1日 「世界的大ヒット、そして今後について」 
2011年、ピンク・マルティーニとのコラボレーションアルバム「1969」が世界的な大ヒットになりました。リーダーのトーマス氏さんが、由紀さおりさんの初期のアルバムをジャケ買いし、天使のスキャットをカバーしたことから始まった交流で、もう一度、自分の原点である歌謡曲をみつけることが出来たのだと由紀さんは話してくれました。
そんな由紀さおりさんは新曲を発表しました。きれいな日本語の歌を唄いたいとリクエストして出来た曲で、新しきスタンダードを目指しています。
 今、海外ツアーを控えています。このツアーでどこまで自分のバンドが作れるか、このチャンスに追求したいと由紀さんは最後に話してくれました。


<由紀さおり>
1969年「夜明けのスキャット」でデビュー。爆発的にヒットし、スキャットブームを巻き起こす。同年、ギリシャ歌のオリンピアード音楽祭に日本代表で参加し、最優秀歌唱賞ゴールデンディスク賞を受賞。「手紙」「恋文」など数々の賞を受賞。1983年に出演した映画「家族ゲーム」では、毎日映画コンクールの女優助演賞受賞。女優として映画、ドラマに出演。バラエティ、司会、ナレーションなど幅広く活躍している。
2011年秋、アメリカのジャズオーケストラPink Martiniとのコラボレーションアルバム「1969」をリリース。世界50か国以上で発売、配信され、iTunes全米ジャズチャートで1位を獲得するなど世界的なヒットとなる。日本の歌謡曲の魅力を世界に広めた点などが評価され、数々の賞を受賞。

2月18日~22日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、眞野あずささん

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2月18日(月)「眞野あずさの少女時代」
子供の頃は「要領の良い子だった」と語る眞野あずささん。
厳格な父の元、大学生の頃でも門限が6時30分に設定されていたそうですが、鎌倉の山の中で育ったという環境には満足だったそうです。
また話を進めていく中で私、邦丸と眞野さんの共通点や共通の趣味などの話題でとっても身近に感じてしまうのでした。

2月19日(火)「女優を始めるまでの道のり。」
「女は結婚して嫁に行くものだ」という偏見をもっていたお父様は、「眞野あずさ」さんを受験勉強から遠ざける為の妨害工作を行います。その結果、志望校は不合格、なんとか滑り込みで大学に入学しますが、入学後は学費を稼ぐためにバイトに励む日々が待っていました。
そんなある日、姉の真野響子さんの付き添いでテレビ局へ行ったとき、新番組のアシスタントに大抜擢されるのですが、いじめられることに...。スタッフを見返す為に始めたという『女優』の仕事を始めるそのきっかけについてお話を伺いました。

2月20日(水)「女優・眞野あずさ」
フランスオールロケのテレビドラマ「風の鳴る国境」で主役を務め、女優として一歩を踏み出した眞野あずささん。
その後は、NHK朝の連続テレビ小説「心はいつもラムネ色」にもご出演され、女優として人気を獲得していくのですが、そこまでには色々とご苦労されたそうです。
今でもこの仕事は恐いという女優というお仕事について、眞野あずささんにお話をお聴きしました。

2月21日(木)「あのヒット作品の裏側。」
眞野あずささんといえば、「はぐれ刑事純情派」や火曜サスペンス劇場で放送されていた「弁護士・高林鮎子」など、数々の当たり役や、作品では無くてはならない役者としてご出演なさっています。
未だに職業欄に「女優」と書けないという眞野あずささんがご出演されている数々のヒット作品についてお話をお聴きしました。
橋爪功さんとの思い出など、エピソードの数々をお楽しみください。

2月22日(金)「眞野あずささんと、真野響子さん」
プライベートはすべて『女優』という仕事に直結しているという眞野あずささん。
そんな眞野さんは、今年の5月から、お姉さまの真野響子さんと二人舞台「完全姉妹」を行います。
そこで、眞野あずささん自身が人生で初めて舞台を踏む事について、そして姉妹で演じる事について、今、現在、思う事をお話いただきました。


<眞野あずさ>
神奈川県鎌倉市生まれ。聖心女子大学在学中にモデルとして注目を集め、卒業後、芸能界へ。1982年、TBS『風の鳴る国境』でヒロインとして女優デビュー。以降、数多くの映画・ドラマ・舞台に出演し、なかでも故・藤田まことさんとの共演が印象的だったドラマ『はぐれ刑事純情派』、『弁護士高林鮎子』『検事:朝日奈耀子』シリーズなどでも活躍。女優・真野響子さんは姉。

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