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11月18日~11月22日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の中越典子さん

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11月18日(月) 「3姉妹の末っ子」
九州・佐賀で生まれ育った中越さん。両親とふたりのお姉さんに囲まれて、とても甘えん坊な少女でした。人との交流が苦手で閉じこもることが多く、芸能界にもほとんど興味がなかったそうです。高校では芸術科でずっと絵を描いていました。カメラマン志望の友だちが撮ってくれた中越さんの写真、焼き増し希望の欄に他のクラスメートからたくさんの「正」の字が付いていたのを見て、「もしかして被写体としてイケるかも?」とはじめて自信を持ちました。人見知りな少女時代のお話です。

11月19日(火) 「上京からデビューまで」
中越さんの出身校は佐賀北高校。夏の甲子園で初優勝したときは中越さんもアルプススタンドで観戦、みんなで熱くなったそうです。卒業後上京し、原宿にある専門学校に通います。念願の東京ライフを満喫しているうちにスカウトされ、モデルのバイトを始めます。その後雑誌「ViVi」のモデルとして活動するのですが、日本人離れしたプロポーションのモデルたちに囲まれ、劣等感を感じることも。本格的に中越さんが女優デビューする直前までのお話です。

11月20日(水) 「NHKの朝ドラ『こころ』」
中越さんの名前を一躍全国区にしたのが、NHK朝の連続テレビ小説「こころ」。オーディションには4回連続で落ち、5回目で見事ヒロインに選ばれました。ほとんど演技の勉強もしていなかったので、演出家にすべての演技をつけてもらっていたそうです。共演者は岸恵子さん、伊藤蘭さん、寺尾聰さんなど錚々たるメンバー。過酷な撮影スケジュール、膨大な台詞・・・女優人生のいちばん最初に、こんな独特な10か月を過ごしたことは非常に勉強になったそうです。

11月21日(木) 「舞台の仕事」
中越さんは舞台にも多数出演しています。舞台は長期間同じ仲間と過ごし、稽古後に食事や飲みに行く機会も多いなか、そういった場が苦手だった中越さんは飲み会に参加するにも勇気が要りました。でも素敵な先輩たちとの交流でいろいろ影響を受け、楽しくなってきたそうです。ある先輩女優が中越さんにかけてくれた一言が、今でも強く印象に残っているそうです。

11月22日(金) 「プライベートについて」
中越さんのプライベートは、陶芸をしたり絵を描いたりと、やはりインドア派。12月13日からの中越さんの出演舞台「直人と倉持の会Vol.1『夜更かしの女たち』」は、大好きな竹中直人さんプロデュースの作品。出演女優の人数も多く、「戦いです」と語ってくれました。目標や計画を考えたことがなく、今が精いっぱいという中越さんですが、実はまだ誰にも話していない「大きな野望」があるそうです・・・。

<中越典子>
佐賀県出身。女性ファッション誌のモデルとしてデビュー。その後、TBS『王様のブランチ』のレポーターとして活躍し知名度が上昇。2003年、NHK連続テレビ小説『こころ』のオーディションに合格し、女優として本格始動。代々浅草で営まれるウナギ屋の娘・こころ役で主演。主な出演作品に、テレビ朝日『警視庁捜査一課9係』『必殺仕事人』、映画『マダム・マーマレードの異常な謎〜出題編』『サラリーマンNEO劇場版(笑)』『岳〜ガク〜』『孤高のメス』、 舞台『マイ・ロマンティック・ヒストリー〜彼の事情と彼女の都合〜』『ヴィーナス・イン・ファー』『こどもの一生』ほか多数。
最新ニュースはこちら http://www.cubeinc.co.jp/nakagoshi/
来月13日からは、下北沢・本多劇場にて直人と倉持の会Vol.1『夜更かしの女たち』に出演する。
公式サイトはこちら http://www.naoto-kuramochi.com/

11月11日~11月15日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、温水洋一さん

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11月11日(月) 「ものまねで目覚めて」 
自衛官のお父さん、公務員のお母さんの間に生まれた温水洋一さんは、本当に引っ込み思案な子供でした。漫画を描き、9時に寝る、インドアな生活を繰り返していた温水さん、唯一やっていたのは剣道でしたが、これは親に無理矢理通わされたものでした。そんな温水さんが変わるきっかけは、声が似ていることを友人に指摘されてやった学年主任のものまねです。気が付けば他のクラスから見に来るほどにものまねはうまくなり、皆を楽しませることの面白さを温水さんは知ったのでした。

11月12日(火) 「演劇をすすめてくれた女の子」
温水さんの次の転機は高三の春でした。美術部に居た好きな女の子に隣りの演劇部で男子が足りなくて困っていると聞いた温水さんは、一緒に帰りたいと言う下心で演劇部に入部したのです。その頃、人前に出ることが好きになっていた温水さんは、高校を卒業する頃にはもう演劇のとりこになっていました。プロになることは考えなかったけれど、ずっと続けていたいとその頃の心境をはなしてくれました。
ちなみにその彼女とのお付き合いは・・・・当時はうまくいかなかったのだそうです。

11月13日(水) 「演劇に魅せられてからの学生生活」
演劇のできる大学を目指して受験をした温水洋一さんは、結局二年間予備校生活をすることになります。フジテレビ前で親戚が中華料理店を営んでいたために、たまたまテレビの収録風景を見た温水さんは、目指す世界が意外と身近にあることを知ります。結局、温水さんは愛知の大学に進みそこで演劇部に入ります。ここはまじめな演劇部で、いろいろな基礎を学ぶことができたのだそうです。
でも、東京の演劇にも未練があった温水さんは休みになると夜行バスで東京に通う生活をしていました。そこで、大人計画との運命の出会いがあったのでした。

11月14日(木) 「バラエティの世界へ進出」
温水洋一さんが入った大人計画はどんどんメジャーになっていき、大きな劇場で公演をするようになります。温水さんもテレビなどにチョイ役で出るようになってきました。東映のVシネマ、痴漢日記シリーズの演技が評価されたのもこの頃です。そんな中で温水さんは、さんまさんに出会います。劇で共演した後、さんまさんは温水さんをバラエティ番組にひっぱってくれ、今の温水さん人気が始まったのでした。
温水さんはバラエティでも気が抜けないと言います。ひな壇に居て、コメントを求められそうな時には、いつもわきの下にたくさんの汗をかいているのだそうです。

11月15日(金) 「温水洋一伝説を検証」
酔っ払ってしまうと電話魔になってしまうとか、駅のホームで女子高生に囲まれたのを痴漢と間違えられたとか、温水さんにはいろいろと伝説があります。売れてからも人見知りなところは残っていて、温水さんはサインなどが苦手なのだそうです。ちょっとはなれたところから見ている奥さんには、良く、ファンを大切に!と怒られている温水さんです。そんな温水さんは「これ、温水さんじゃないとできない役だね」と言われる俳優になりたいのだそうです。年によって仕事の方向性に波がある温水さんですが、楽しく仕事を続けられれば良いと話してくれました。

<温水洋一>
"劇団大人計画出身(1988~1994年まで在籍)。その後、遊園地再生事業団、村松利史プロデュース、竹中直人の会などに出演。1998年、新たなる活動の拠点として現在の事務所オフィスワン・ツゥ・スリーをイラストレーター安齋肇、俳優の村松利史らと設立、所属。映画では、竹中直人監督『119』、平山秀幸監督『愛を乞う人』、ダンカン監督『七人の弔』などに出演。2006年、三木聡監督『ダメジン』では出演だけでなく企画から参加もした。TVドラマでも、日本テレビ『ギャルサー』、フジテレビ『山おんな壁おんな』『ロス:タイム:ライフ』など、レギュラー多数。また、舞台では明石家さんま主演『七人ぐらいの兵士』や『奇人たちの晩餐会』、三谷幸喜氏作・演出『オケピ!』『12人の優しい日本人』などに出演する一方、大堀こういち氏とのユニット""O.Nアベックホームラン""の活動も著しい。舞台・映画・ドラマと幅広く、神出鬼没の個性派怪優として活躍。"

11月4日~11月8日の「ラジオバイオグラフィ 5冊のアルバム」のゲストは、野村克也さん

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11月4日(月)「歌手になりたかった少年時代」
幼いころに父を亡くし、母親が女手一つで育ててくれたと振り返る野村さん。母親が病気で近所の人たちに、もうだめらしいと噂されて、兄と二人で落ち込んだ日もあったそうです。母親がかえってきてからは、金持ちになりたい!と決心。中学1年の時に歌手を目指して活動を開始しますが、鏡を見ると...。野村少年の決心が揺らぎます。

11月5日(火) 「プロ野球へ入るきっかけ」
高校時代野球をやっていたが、3年間で甲子園の京都府予選で勝ったのは1回だけ。新聞配達をしていたら、スポーツ新聞に南海ホークスが新人を募集するという記事が載っていました。先生に相談してテストを受けることに。お金がなかったので先生に旅費を貸してもらいました。テストで一番苦手なのは遠投。その時に二軍の選手が野村さんにあることをささやきます。そして南海ホークスに入団したのでした。

11月6日(水)「ささやき戦術と それが全く効かない人」
野村克也さんの代名詞といえばささやき戦術。もともとは野村さん自身がささやかれたのが始まりだったそうです。結構成果はあったようですが、どんなにささやいても効果がなかった二人の選手の名前をあげています。野村さんの名セリフ「月見草」のエピソードも紹介してくれました。

11月7日(木) 「ヤクルトはどうやって強くなっていったのか」
ある日、ヤクルトの球団社長の訪問を受けた野村さん。監督要請に驚いたそうです。
監督になってからは「アンチ巨人」でマスコミを使って巨人に対するコメントを連発。これは盛り上がるための作戦だったのだが、巨人の長嶋さんはそれ以来疎遠になってしまったそうです。愛弟子、古田選手への教えについても語ってくださいました。

11月8日(金) 「私の教え子ベストナイン」
楽天の監督を離れてからまだ年月がたっていませんが、スタメンのオーダーがだいぶ変わってしまった。入れ替わりが激しい世界だなとしみじみ思うそうです。田中将大選手については、ストレートよりスライダーを評価したのだそうです。ヤクルトの伊藤智仁選手についても語ってくださいました。これからしたいこと。おいしい店を探してうまいものを食べる。日本食、中華、イタリアンなど各部門5~6軒を確保してローテーションで回っているそうです。

<野村克也>
京都府立峰山高校を卒業し、1954年にテスト生として南海ホークスに入団。3年目の1956年からレギュラーに定着すると、現役27年間にわたり球界を代表する捕手として活躍。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王などその強打で数々の記録を打ち立て、 不動の正捕手として南海の黄金時代を支えた。
70年の南海でのプレイングマネージャー就任以降、延べ四球団で監督を歴任。 他球団で挫折した選手を見事に立ち直らせ、チームの中心選手に育て上げる手腕は、「野村再生工場」と呼ばれ、 ヤクルトでは「ID野球」で黄金期を築き、楽天では球団初のクライマックスシリーズ出場を果たすなど輝かしい功績を残した。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督であり、野球解説者としても活躍。

10月28日~11月1日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、鶴田真由さん

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10月28日(月)「鶴田真由の少女時代」
鎌倉で生まれ育った鶴田真由さん。
おてんばでアウトドアな生活を過ごすも、その反面、ピアノが趣味で、ト短調みたいな暗い音楽が好きだったそうです。そんな鶴田さん、先生相手に小学生の頃にある大きな抗議活動を行ったそうです。個性が強かったという鶴田さんの少女時代についてお話いただきました。

10月29日(火)「女優デビュー」
高校三年生の頃、親戚の紹介で芸能界入りすることになった鶴田さん。
女優としてのデビュー作「あぶない少年2」でした。当時の撮影の様子や印象的な出来事の他、女優という仕事に対して鶴田さんなりの見方、感じ方などお話いただいきました。

10月30日(水)「鶴田真由の恋物語」
「好きになったら一直線!」という鶴田さん。
過去の雑誌記事などで、色々と恋の話題が取りざたされましたが、その事実について教えてくださいました。ご主人と出会われたのは、アメリカ・ニューヨーク。ゼロ目惚れだったという恋愛話についてお話いただきました。

10月31日(木)「鶴田真由著、ニッポン西遊記 古事記編」
旅が好きという鶴田さん。
それが興じて、縁が縁を呼び、古事記のルーツをめぐる連載をスタートさせることになります。今まで見えなかった物語や解釈が出来るようになったという鶴田さん。式年遷宮に参加し、その身で感じた経験談など、鶴田さん著書と併せて旅に出かけたくなるお話をお聴きしました。

11月1日(金)「これからの鶴田真由さん」
現在も鎌倉に住んでいるという鶴田さん。
その鶴田さんがお勧めしたいスポットを教えていただきました。また、ご出演されている映画で来年一月に公開予定、第26回東京国際映画祭のコンペティションにもノミネートされた作品「ほとりの朔子」について、見所や素晴らしさについてお話いただきました。

<鶴田真由>
鎌倉市生まれ。成城大学文芸学部卒。88年「あぶない少年II」で女優デビュー。以後、多くのドラマや映画に出演。舞台でも活躍。旅番組、ドキュメンタリー番組への出演も多い。96年「きけ、わだつみの声 Last Friends」で日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。以前、番組取材でアフリカを訪れたことを機に、2008年に第4回アフリカ開発会議親善大使の委嘱を受ける。趣味は旅、ヨガ。

10月21日~10月25日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、押切もえさん

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10月21日(月)「 "いじめられっ子" から "アムラー" へ」
「子供の頃から目立っていた」という押切もえさん。小学生の時は服装のことで上級生からイジメられ、中学生で太宰治に目覚め、高校に入ると安室奈美恵さんに憧れて顔グロになることに多くの時間を費やしていたそうです。
初日の月曜日は、押切さんに自身の学生時代を振り返っていただきました。

10月22日(火)「押切もえを探してます!」
ある日、渋谷のセンター街に、押切さんが読者モデルとして載っている雑誌を片手に「押切もえを探してます!」と声を張り上げる怪しげな人物が出現。その人と接触したことが、この世界に入るきっかけになりました。と言うのも、その怪しい人物は某芸能事務所のスカウト。ひょんな事から憧れていたモデルの仕事に一歩近づいた押切さんでしたが、事務所のスタッフから最初に発せられた一言は、「君、歌を歌える?」 でした。そして、その直後に訪れた屈辱的な出来事...。
火曜日は、押切さんが渋谷でスカウトされたエピソードを中心にお話を伺っています。

10月23日(水)「後悔はしたくない」
モデルになることを夢見つつも、楽な方へ楽な方へと流され、芸能事務所に入った以外は具体的に何の行動も取っていなかった押切さん。意を決して雑誌の編集部への訪問などを始めるのですが、そこに待っていたのは、「どこも自分の事なんか相手にしてくれない」という厳しい現実。それでも「後悔はしたくない」、「私にはまだまだやれることがある」と、あきらめなかった押切さん。
水曜日は、自分に対する自信を失いかけているような方に是非とも聴いていただきたい、そんな内容です。

10月24日(木)「モデルのお仕事」
一見、華やかに見える「モデルのお仕事」ですが、そこには当然のようにさまざまな苦労があるようです。果たして、巷間囁かれているモデル同士の嫉妬や無視などは本当のことなのでしょうか?
木曜日は、押切さんにその辺りのことをお話しいただいています。そして、後半はファッションショーのランウェイにまつわる話題で、邦丸さんが「ハッ!」と息をのむ展開に!

10月25日(金)「小説 『 浅き夢見し 』」
現在絶賛発売中の押切さんの処女小説「浅き夢見し」。邦丸さんは一気に読み終えてしまい、主人公の名前にまつわるエピソードでは涙まで流してしまった ... そんな内容だそうです。
最終日は、サイン会に来てくれた多くのファンの方に「とても面白かったです。続編をお願いします。」と言われて戸惑い気味の「新米小説家・押切もえ」にスポットを当ててみます。

<押切もえ>
1979年、千葉県生まれ。ティーンの頃、雑誌でモデルデビューし、当時の女子高生のカリスマ的存在となる。その後は『CanCam』の専属モデルとして大ブレイク。現在は『AneCan』専属モデルとして活躍する一方で、テレビ&ラジオ番組出演、ファッションショー出演、商品デザイン、マンションプロデュースなど活動は多岐にわたる。

10月14日~10月18日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の杉田かおるさん

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10月14日 (月) 「チー坊!」
最初にスタジオに入ってきた杉田さん、「魔王」と呼ばれていた破天荒なイメージとはちょっと違ったナチュラルな雰囲気が漂います。4才で劇団に入団、7歳で石立鉄男さんの「チー坊!」でおなじみのドラマ「パパと呼ばないで」に出演。これが大ヒット作となりました。今は亡き石立さんは、今後杉田さんの生き方の水先案内人となる人生の師。石立さんに対する特別の想いを、杉田さんがたっぷりと語ってくれました。

10月15日 (火) 「3年B組金八先生」
社会現象となったドラマ「3年B組金八先生」で、杉田さんは妊娠する中学生という難しい役を演じ話題になりました。杉田さんのもうひとりの人生の師である武田鉄矢さん、近藤真彦さん、田原俊彦さん、三原じゅん子さんなど、当時の出演者との面白い人間関係について教えてくれました。当時、杉田さんが好きだった相手って、「あの人」だったんですねェ・・・。

10月16日 (水) 「バラエティ番組にも進出!」
「金八」の後「池中玄太80キロ」に出演、主題歌「鳥の詩」もヒットし多忙を極めた杉田さん。子役のイメージを払拭しイメージチェンジを図ろうと、映画「青春の門 自立編」ではヌードを披露しています。子役の時から借金を背負って健気に働いてきたのに、26才の時に今度は1億円の借金を背負いまた借金地獄に。そんな苦境のなか手を差し伸べてくれたのは、やはり石立鉄男さんでした。

10月17日 (木) 「オーガニックライフ」
杉田さんのイメージといえば「恋多き女」。マスコミにその破天荒ぶりが良く取りざたされましたが、本当のところはどうなのか?その恋愛事情について率直にお聴きしてみました。そして杉田さんは、武田鉄矢さんがきっかけでオーガニック農業に行きつき、人生観が変わります。土に触れることによって人間や、もっと大きい「地球」を実感できるという、杉田さんのオーガニックライフの話題です。

10月18日 (金) 「波乱万丈な半生を経て」
現在の杉田さんのプライベートは、高齢のお母さんを世話する介護生活。息抜きは「仕事の現場」なんだそうです。現在公開中の映画「『また、必ず会おう』と誰もが言った。」今月下旬公開の「女たちの都~ワッゲンオッゲン~」と、出演作も目白押し。波乱万丈な半生を経ていま40代後半、自然体で微笑む杉田さん。今のあなたが一番ステキだと、野村邦丸、強く思います!

<杉田かおる>
7歳の時にドラマ「パパと呼ばないで」(日本テレビ系)に出演し子役デビュー。
中学生の時にドラマ「3年B組金八先生」(TBS系)で妊娠する中学生を演じ、大きな話題に。その後、ドラマに多数出演。女優業以外にもバラエティ番組に出演し、人気に。
2004年、「24時間テレビ」のマラソンランナーとして100キロを完走。
2009年、10キロのダイエットに成功。その様子は、「杉田かおるの毒だしダイエット」(アスコム)に収録されている。美容や健康、農業などに興味を深め、自然農にも挑戦。
著書に「杉田かおるのオーガニックライフ」、写真集「Reborn」などがある。

10月7日~10月11日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、相田翔子さん

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10月7日(月)「面白いことが大好きだった中学時代」 
子供のころは、男の子のよう遊んでいた相田さん。日本丸のプラモデルを作ったりしていたのだそうです。中学時代はスケートの選手や女子プロレスにあこがれたりもしたそうです。でも内弁慶。初恋の話もしてくださいました。

10月8日(火)「ウィンク デビュー」
あこがれの先輩にふりむいてもらおうと転んだ時に血のりを付けてみたりと、いたずら好きの相田さん。しかし内弁慶は変わらず。友達の推薦で歌手のオーディションを受けましたが、落選。でもモデルとしてやってみないかと声をかけられ、高校生ぐらいからモデルなどの活動を始めました。雑誌のコンテストで優勝。その半年前に優勝した鈴木早智子さんとの出会いからあっという間のウィンクデビューまでの話を語ってくれました。

10月9日(水)「笑わないアイドル そしてウィンク活動休止」 
笑わないアイドルは演出だったのか?とよく言われ、練習もしましたが笑顔ができなかったそうです。活動を続けていくうちに余裕ができてきたが、今度は笑わないイメージに逆らえず、笑わないキャラクターを演じていた時もあったそうです。その後、ストレスからくる突発性難聴になってしまいます。でも歌いたい気持ちに素直になったとき、驚異の回復を見せます。

10月10日(木) 「2年間のブランクを経て」 
96年ウィンクの活動を休止。2年間ほどテレビから遠ざかっていました。作詞作曲の勉強を続けていたそうです。「落ちぶれちゃって」といわれて傷ついた事もありましたが、そういった言葉も励みになったそうです。姉とジャマイカ旅行をして自分の音楽性が固まっていったのだそうです。その後、バラエティー番組などに出演するようになり「天然ボケ」で人気が出てきました。舞台にも挑戦しています。

10月11日(金) 「出会いと結婚 そしてこれから」 
38歳で結婚。大人の恋愛でした。ご主人は海外留学をしていたこともあり、芸能人としての相田さんへの先入観がなかったのも良かったのかもしれないと振り返っています。ご主人の母親は司葉子さん。結婚のとき、出産のとき、とても力になってくれたそうです。9月4日には新しいアルバムをリリース。デビュー25周年の記念アルバムです。そのアルバムについても熱く語ってくださいました。

<相田翔子>
1970年生。1988年女性デュオ「Wink」としてデビュー。
翌年には日本レコード大賞を受賞。
1996年の活動停止以降は、映画・ドラマ・CM・舞台で女優として活動。
また、人気バラエティ番組のレギュラーや司会を務めるなど、幅広く活躍している。

9月30日~10月4日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、蜷川幸雄さん

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9月30日(月) 「蜷川幸雄の少年時代」
川口の洋服屋の息子として生まれた蜷川幸雄さん。
高校に入るまでは典型的な優等生だったのですが、名門進学校の授業がつまらないとよくサボり、落第してしまったそうです。当時から文学や芸術などが好きだった事から、芸術への道を志すのですが...。蜷川さんの少年時代のお話をお聴きしました。

10月1日(火) 「演劇の世界で俳優デビュー」
「なにもやる事が無いから...」と、劇団「青俳」に応募し合格した蜷川さん。
しかし、芝居は下手なのに生意気だったことから、「貴族俳優」と周りからは言われていたそうです。ある時、演出家になりたいと一念発起し、劇団の女優だった奥様や石橋蓮司さんなどと一緒に新しい劇団を旗揚げするのでした。俳優デビューした当時の「蜷川幸雄」についてお話いただきました。

10月2日(水) 「演出家 蜷川幸雄、デビュー」
1965年「真情あふるる軽薄さ」で演出家デビューした蜷川さん。
小劇場での演出だったが会場に入りきらない程のお客さんに手応えはあったそうです。
その後、大劇場で上演される「商業演劇」の道に進むのですが当時はアングラ劇団ブームで商業演劇を行く蜷川さんに対して、あまり良いイメージはなかったんだとか。
そこで蜷川さん、ナメられてたまるかと、稽古場で物を投げ、怒鳴り散らす。
それが鬼の演出家、蜷川幸雄が生まれた瞬間でした。演出家・蜷川幸雄についてお話をお伺いしました。

10月3日(木) 「蜷川幸雄の演出論」
商業演劇の世界で活躍する一方、ギャラが安く食べていけないので役者の仕事をし、演出の仕事がしたく無い時は主夫をしていたそうです。そんな蜷川さんの演出で多くの俳優が大きく羽ばたいていったのですが、みんなある共通点があるそうです。その共通点とはいったい...。
蜷川さんのキャスティング論についてお話いただきました。

10月4日(金) 「パワフルに活動する蜷川幸雄」
普通とは違う演劇を作りたいと2006年に55歳以上の方達で結成した高齢者演劇集団「さいたまゴールドシアター」。その活動内容だったり、そこで学ぶ事が多いんだと話していただけました。
また、現在、3本の舞台を演出されており、その中でこれから始まる舞台「唐版、滝の白糸」についてお話をお聴きしました。


<蜷川幸雄>
1935年10月15日、埼玉県川口市生まれ。
55年に劇団青俳に入団し、68年に劇団現代人劇場を創立。
69年『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビュー。72年演劇集団「櫻社」結成、74年同劇団を解散後、『ロミオとジュリエット』で大劇場へ進出、以後日本を代表する演出家として国内外の現代劇から近松門左衛門、シェイクスピア、ギリシャ悲劇など幅広い作品を次々と世に送り出している。
また、83年の『王女メディア』ギリシャ・ローマ公演を皮切りに、毎年海外公演を行い、その活動は広く海外でも注目され高い評価を得ている。
彩の国さいたま芸術劇場ではシェイクスピアの全作品を上演する「彩の国シェイクスピア・シリーズ」を敢行中。
88年『近松心中物語』の第38回芸術選奨文部大臣賞をはじめ受賞歴多数。
ロンドングローブ座のアーティスティックディレクターの一人でもある。
2006年彩の国さいたま芸術劇場で55才以上の演劇集団「さいたまゴールド・シアター」創設。2009年若手俳優育成プロジェクト「さいたまネクスト・シアター」開始。

9月24日~9月27日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、柴田理恵さん

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9月24日(火) 「子供のころの話/ワハハ本舗結成」 
柴田理恵さんは富山県の生まれ、まじめな優等生タイプの子供でした。
中学時代に山本リンダの物まねをしてクラスメートにうけたとき人を楽しませることの面白さを知った柴田さんは、演劇の道に進むことを決意し明治大学に入学します。
そして、劇団員募集をしていなかった東京ヴォードビルショーに無理やり入団させてもらい久本雅美さんとも出会った柴田さんでしたが、3年後には独立し、「ワハハ本舗」を立ち上げます。佐藤B作さんを尊敬していた柴田さんが、B作さんから離れていった訳は、先輩と同じ苦労をしないと同じ土俵に乗れないという、とても切実なものでした。

9月25日(水) 「テレビへの出演/久本さんとの友情」
ワハハ本舗の旗揚げ公演は大成功でしたが、二回目の公演ではお客さんが全然入りませんでした。今思えば、一回目は新劇団立ち上げの御祝儀だったのだろうと柴田さんは話します。
その後、苦労してチケットを売る日々を送っていましたが、軽井沢の公演をフジテレビの三宅プロデューサーがたまたま見てくれたことでテレビへ出演するようになります。
いくつものテレビ番組へ出るようになったころから公演への入場者は激増、人気劇団になりますが、その頃柴田さんは、自分が何をやっているのか?何をやりたいのかわらなくなりスランプに陥ります。そん時、救ってくれたのは親友、久本さんの一言でした。

9月26日(木)「公開結婚式」 
舞台が好き!舞台でバカなことができるのはとても楽しいという柴田さん、なんと、ご自身の結婚式まで劇団のイベントにしてしまっています。でもあまりに舞台が忙しくて、そのあとずっと籍を入れるのを忘れていたのだそうです。会話に困らない友人のような夫婦だと、話します。
夫と二人暮らしですが、柴田さんには愛犬も居ます。不法投棄のごみの山から助け出した3本足の晴太郎君で、とても大事にしているのだそうです。犬が来てから初めて家庭ができたと、笑ってくれました。

9月27日(金)  「今後について」 
柴田さんはテレビでよく泣いてしまいますが、あれはマジ泣きで、すぐにストーリーに入ってしまうのだそうです。映画を見ていても泣いてしまって立てない時があると話してくれました。
お酒をよく飲みます。手作りのつまみで家で飲むのが好きだけれど、最近弱くなったと柴田さんは笑います。
これからも柴田さんは芝居を続けたいそうです。テレビもいいね、今の仕事が面白いという柴田さんですが、できたらやってみたいこと、それはちょっと意外な事でした。


<柴田理恵>
1959年生まれ。富山県出身。劇団東京ヴォードヴィルショーを経て、1984年、演出家の喰始氏を中心に、佐藤正宏氏や久本雅美氏ら若手団員とともにワハハ本舗を設立。劇団の中心メンバーとして舞台公演を精力的に行う。現在は舞台の他、映画やTVドラマ、バラエティ番組などでも活躍。

9月17日~9月20日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、瞳みのるさん

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9月17日 (火) 「ザ・タイガース誕生」
京都生まれの瞳さん。数ある楽器の中からドラムを選び、ドラマーになったその理由は、子供時代にありました。サリーこと岸部一徳さん、タローこと森本太郎さん、トッポこと加橋かつみさんとの出会い。そして最後に加わったジュリーこと沢田研二さん、以上5人のメンバーで「ザ・ファニーズ」が結成されます。大阪のジャズ喫茶などで活動しますが、内田裕也さんの勧めで上京。「ザ・タイガース」誕生前夜までのお話です。

9月18日 (水) 「ザ・タイガース解散」
ザ・タイガースは瞬く間にスターダムにのし上がり、当時はもう何が何だかわからず時間が過ぎていったという瞳さん。トッポの失踪騒動、シローこと岸部シローさん加入を経て、ついにザ・タイガースは解散。武道館での解散ライブ、そして打ち上げが終わったその足で、瞳さんが向かった先は・・・?

9月19日 (木) 「瞳みのるさんと中国」
ザ・タイガース解散後、京都にいったん帰った瞳さん。高校に復学して、慶応義塾大学に進学。卒業後は慶応義塾高校の中国語の教師となります。約32年間の教師生活。この間瞳さんは中国と日本との架け橋となるべく、中国語そして中国文化の研究に力を入れていきます。まるで教室で面白い授業を受けているように、瞳先生が教えてくれる「中国と日本」のお話です。

9月20日 (金) 「44年ぶり、全員でザ・タイガース復活!」
メンバーと連絡を断ち、高校教師を続けていた瞳さんのもとへ、当時のマネージャーだった中井國二(なかい・くにじ)さんが訪ねてきます。そして、38年間全く連絡を取らなかったメンバーとの再会。その時の想いを話していただきました。ザ・タイガースは44年ぶりにオリジナルメンバーで復活し、今年の12月にツアーが実施されます。44年ぶりのザ・タイガースの「生音」。いったいどんなハーモニーになるのか、いまからワクワクします!


<瞳みのる>
1946年、京都生まれ。'67~71年まで、瞳みのるの名で、ザ・タイガースのドラマーとして活躍。グループ解散後、芸能界から完全引退。慶應大学文学部・中国文学科卒。慶應高校で教鞭をとる。同大大学院修士課程修了。北京大学へ2年間留学。中国文学への造詣が深く、京劇と歌舞伎のコラボレーションや歌曲の中国語訳など、活動は幅広い。

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