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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

1月20日~1月24日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、俳優の志賀廣太郎さん

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1月20日(月) 「子供のころの話」
兵庫県出身の志賀さん。後に東京都杉並区の浜田山に引っ越します。その時の幼稚園の園長先生と結婚したいと思っていたそうです。ちなみに園長先生は男性。小学校の時の担任の先生が劇団民藝の俳優教室に通っていた関係で、学芸会などでのお芝居は脚本からオリジナル。結構深い芝居を今思えばやっていたそうです。中学、高校と演劇部に所属。卒業が近くなり、どうしようかと考えていたところとあるニュースが飛び込んできました。

1月21日(火) 「役者にならず、演劇の講師に」
俳優座の養成所が桐朋学園に経営移管されると聞いて勢いで入学してしまった志賀さん。入ったらものすごい講師陣で、緊張してしまったそうです。学生時代は演技のことで結構だめだしされたそうです。卒業後、無給で講師の手伝いをしていましたが、あるとき研修である劇団の手伝いをしていたところ、劇団員の愚痴を聞いているうちに、役者への夢が少し冷めてしまい、役者の道から少し外れて演劇の講師になってしまうのでした。

1月22日(水) 「演劇の講師から役者へ」
今でも演劇の講師をしている志賀さん。教え子には南果歩さんがいます。俳優になってから再開した時、先生いつから同業者になったんですか?と言われたそうです。一時は講師や演劇そのものをやめようかと考えた時もあったそうですが、「そうだ、まだ自分は役者をやっていない」と気づいて役者に転向します。とある劇団に酔った勢いで「次の公演に出たい!」と直訴。それが今につながっています。

1月23日(木) 「固い役ばかりではないんです」
ザ・3名様のパフェオヤジでブレイク。ドラマ「ありふれた奇跡」での女装趣味のサラリーマンの役。その時の姿を共演した風間杜夫さんが見て大爆笑。その時の写真をみた邦丸さんも大爆笑です。堅い役も多い中、こういったものも嫌いではないそうです。半沢直樹の第1回目の冒頭での出演についても語っていただきました。時代劇みたいな感じがしたと感想を述べています。

1月24日(金) 「俳優としての生き方」
俳優人生を振り返り、俳優やっていなかったらダメ人間になっていたと思っているそうです。俳優としての生き方、どういう時代に自分はどういった立場をとるのかということをいつも考えなければいけないと常に思っているそうです。できるだけ長く元気に俳優を続けたいと考え、たまには極悪非道の役もやってみたいそうです。

<志賀廣太郎>
1948年生まれ。兵庫県出身。桐朋学園芸術短期大学では演劇講師も務める。1990年に青年団に入団。舞台を中心に活躍。その後、味のある渋い声と確かな演技力で、テレビドラマ、映画、CMなどで名脇役として活躍中。刑事、教師、医者などを演じる事が多い。『THE3名様』のコミカルなパフェおやじ役で注目を集める。ドラマ出演作品は『ハゲタカ』(2007年 NHK総合)、『医龍-Team Medical Dragon2-』(2007年 フジテレビ系)、『アンフェア』(2006年 フジテレビ系)など多数。

1月13日~1月17日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、俳優の石丸謙二郎さん

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1月13日(月)「石丸少年の体験談」
少年時代には銀行員を務めていらっしゃったお父様の関係で、大分県内を何度も引越しをしていたという石丸謙二郎さん。引越し先のお住まいはとても変わっていたそうで、飛び出すエピソードの数々に、驚かされてばかりでした。
初日は、石丸謙二郎さんの少年時代をお聴きしています。

1月14日(火)「演劇を始めるキッカケ」
高校に卒業後、日大の芸術学部に進学するもすぐに辞めてしまった石丸謙二郎さん。
ふらふらしている内にアメリカに行きたいと思い、資金を貯めるも、ある出来事から断念。その後、知人の紹介で「つかこうへい」さんと出会い、演劇の世界に踏み込んでいきます。
石丸謙二郎さんが演劇の世界に踏み込んでいくキッカケについてお話をいただきました。

1月15日(水)「世界の車窓から」
石丸謙二郎さんといえば、「世界の車窓から」ではないでしょうか?
四半世紀続いた番組の開始した当時の話や収録の裏話など、「世界の車窓から」をもっと楽しめるお話をしていただきました。

1月16日(木)「俳優・石丸謙二郎」
なぜか悪役が多い石丸謙二郎さん。石丸さんご本人も、いつから悪役としてキャスティングされはじめたのか、さっぱり分からないそうです。最初は、戸惑いもあったそうですが、現在では悪役の心得・役得を理解し、思いっきり楽しんでいるそうです。
俳優としての石丸謙二郎さんについてお聴きしました。

1月17日(金)「趣味人、石丸謙二郎!」
ウィンドサーフィン、フリークライミング等々、業界きっての多趣味として知られる石丸謙二郎さん。
なぜ色々な趣味を持つのか?石丸さんにお話をお聴きしました。
チャレンジ精神として出演を始めたという、テレビ番組「SASUKE」へのご出演エピソードもお聴きしています。

<石丸謙二郎>
つかこうへい事務所を経てフリーの役者に。以後、独特の存在感と演技力で数々のドラマや映画、舞台に出演。テレビ朝日『世界の車窓から』のナレーションを務めていることでも有名。また、その鍛えた身体を生かして、TBS『SASUKE』に出演するなど幅広い分野で活動を展開。その他の主な出演作品に、NHK『澪つくし』『火消し屋小屋』、テレビ朝日『仮面ライダー電王』、映画『蒲田行進曲』『黒い雨』『失楽園』、CM『幸薬品「正露丸」』など。趣味はウィンドサービン、フリークライミング、将棋、釣り。

1月6日~1月10日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の山口果林さん

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1月6日(月)「 わんこたたき 」
戦後のベビーブーム世代、5人姉弟の四女としてお生まれになった山口果林さん。当時は「家督として男の子が欲しい」という時代だったことから、幼少時の山口果林さんは「家族からあまり注目されてないなぁ...」と感じていたそうです。そのせいかどうかは定かではありませんが、性格も少々難あり...だったとか。
初日の月曜日は、読書と紙芝居が好きだったという、山口果林さんの子供時代を振り返ります。
タイトルの「わんこたたき」の意味については、放送でご確認下さい!

1月7日(火)「 安部先生との出会い 」
小学生の時、自由にお芝居をやらせてくれたアベ先生と出会ったことが、女優を志すきっかけになったという山口果林さん。そして、その後、大学の演劇科で出会ったのが、安部公房先生。
火曜日は、二人の「あべ先生」にスポットを当てます。
安倍公房先生と「先生と生徒の関係」から「男と女の関係」に至った経緯もお話して下さいました。

1月8日(水)「 繭子ひとり 」
大学を卒業して阿部公房スタジオの創立に参加後、ちょっとした勘違いで受けたNHK朝の連続テレビ小説「繭子ひとり」のオーディションでヒロインに抜擢された山口果林さん。一度は「ドラマへの出演辞退」という、考えられないような仰天ハプニングもあったものの、最後まで無事に主役を務めあげた撮影の最終日...ヒロインの目に涙はありませんでした。その時、山口果林さんの胸に去来していた想いとは?
水曜日は、安倍公房さんとのお付き合いを隠しながら撮影していたという、ドラマ「繭子ひとり」でのエピソードを中心にお話を伺っております。

1月9日(木)「 芸名 『 山口果林 』 に込めた想い 」
芸名である『山口果林』という名は安倍公房さんが付けてくれたものだそうです。どんな名前がいいのか...安倍公房さんがいろいろと思い悩んでいる様子は、昨年に発売された山口果林さんの自伝「安倍公房とわたし」の見返しでも窺い知ることができます。
木曜日は、このページを実際に見ながら、安倍公房さん当時の心境を勝手に推測しております。
ある事柄を発見した、私、野村邦丸。安倍公房さんとの距離が一気に縮まりました。

1月10日(金)「 安倍公房とわたし 」
最終日は、安倍公房さんを失った山口果林さんが、自伝「安倍公房とわたし」を書かれるまでの心の移り変わりを辿ってみました。
一度はどん底まで落ち、「もう死んでもいい」とまで思ったという山口果林さん。再び前へ進み始めるまでに、さまざまな想い・葛藤があったようです。

<山口果林>
1947年、東京都生まれ。桐朋学園大学演劇科を卒業後、俳優座入団。桐朋学園時代より安部公房氏に師事。芸名「果林」は安部氏が名付けた。1970年、森川時久監督『若者の旗』に初出演しデビュー。1971年、NHK朝の連続テレビ小説『繭子ひとり』でヒロイン役を務める。俳優座、安部公房スタジオを中心とする舞台、『砂の器』ほかの映画、多数のテレビドラマに出演している。

3人のアクティビスト、「その後」を語る

今年、当コーナーにご出演いただいたアクティビストは50人以上。
その中から3人の方に電話をつなぎ「その後」をお話いただきました。

福島ユナイテッドFC代表、鈴木勇人さん
震災後、試合ができる状態でなかったチームが一丸となり戦い抜きJFL昇格。
サポーターの皆さんの力も大きかった。楽天も日本シリーズで優勝、励みになりました。
今後も、福島で夢を広げていきたいと話してくれました。
福島ユナイテッドFC 公式サイト
http://fukushimaunited.com/

海をつくる会 事務局長 坂本昭夫さん
ダイバー仲間で結成し、海底清掃活動を続けています。震災直後は被災地の
海底がれきの除去活動に携わってきました。清掃時に、ご遺体を見つけることもあります。
ひとりでも多くご遺族の方に戻れるようにと願います。自分たちダイバー軍団は
海の底がキレイになるように、引き続き海底清掃を続けます、と真摯に語ってくれました。
海をつくる会 公式サイト
http://umikai.sakura.ne.jp/

「TSUNA」副編集長 竹内一馬さん
ひょんなきっかけで豊ノ島関と知り合いになり、相撲に興味を持ってフリーペーパー
「TSUNA」を創刊。すぐになくなってしまう人気の「TSUNA」もうすぐ8号が出ます。
しかし引き続き台所事情は苦しいようです。土俵際で粘って粘って、絶対にあきらめずに
「TSUNA」を出し続けたいと力強く話してくれました。
相撲情報誌「TSUNA」公式サイト
http://www.tsunage.info/

12月30日~1月1日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、ツートン青木さん

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12月30日(月)「デビューまでの道のり」
ツートン青木さんは神奈川県の真鶴の生まれ、典型的な漁師さんの家だったそうです。16歳でバンドを組み、コンテストに出て地区予選準優勝を2回しますが、記念レコーディングに行かず、結果としてツートンさんはデビューのタイミングを逃してしまいます。
国鉄の職員を経て、ダンプカーの運転をツートンさんは始めます。運転をしながらいろいろなところで唄を歌うツートンさんでしたが、その事を嫌がる奥様とは離婚してしまったのだそうです。しかしある日、荷台を上げたままダンプカーを走らせたツートン青木さんは、なんとダンプの荷台を歩道橋にぶつけてしまいます。

12月31日(火)「モノマネタレントとして活躍」
ダンプの荷台を歩道橋にぶつけたツートン青木さんはたくさんの借金を背負ってしまいます。でも、テレビののど自慢番組に出たり、モノマネ番組に出たり、そして、営業でステージに立つようにもなり、少しずつタレントとしての仕事は増えていきます。2年間二足の草鞋を履いたのち、ツートン青木さんはプロとしてやっていく決心をつけました。
息子さんの、青木隆治(りゅうじ)さんもモノマネをしています。ツートンさんは歌手にしたかったけれど、周りにのせられてしまったようだと話してくれました。でも、今は息子さんの芸を認めていて、息子さんのモノマネから学ぶところもあるのだと話してくれました。

1月1日(水)「火事の話/今後について」
プロとして一人立ちしたころ、ツートン青木さんは火事に逢ってしまいます。貰い火事で家財道具一切が消えてしまいますが、同時にお子さんの思い出も消えてしまった、これが一番悲しいと話すツートンさんです。後に東北の皆さんが津波で同じように一切合財を失ってしまった事を知ったツートンさんは、コロッケさんと避難場所に飛んでいきます。何もない、真っ暗な体育館でやった芸が忘れられないのだそうです。
今年、ツートンさんは曲を出そうと思っています。堀江淳さんに作曲してもらった曲「サイン」を初披露してくれたツートンさんでした。そして今は、これまで滅茶苦茶だった分、がんばりたいのだそうです。明日の為になることを少しづつやっていきたいと言うツートンさんでした。

<ツートン青木>
神奈川県出身。
本名は青木 努(あおき つとむ)。息子の青木隆治もものまねタレント。
国鉄職員、ダンプカー運転手を経て、ものまねタレントとなる。
美空ひばりを中心とする歌唱によるモノマネ(いわゆる歌まね)がメインだが、古畑任三郎に扮した田村正和のモノマネも得意である。ただし、普通の声で喋る時は照れる。

12月24日~12月27日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、俳優の塩見三省さん

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12月24日(火) 「さんちゃんの青春時代」
ラジオに出るのが生まれて初めてだという塩見さん。親しみをこめて「さんちゃん」と呼ばせていただきます。1948年生まれ、京都出身のさんちゃん、いたって消極的な学生時代を送ります。同志社大学卒業後、ひとりで海外放浪の旅に出たのですが、ここで生涯最大のピンチを迎えました。今日はなんとその時の証拠品をスタジオに持って来てくれました!

12月25日(水)「俳優として活動」
自分から前に出ない、人見知りで消極的な塩見さんですが、自分に唯一力があるとすれば「人に出会う力」だと語ります。28才で入所した演劇劇団「円」では、生涯の恩人・岸田今日子さんとの出会いがありました。そして演出家のつかこうへいさんとの出会い。つかさんの「熱海殺人事件」では主演も務めました。決して前に出ようとしない塩見さん、主演としてみんなを引っ張っていくことができたのでしょうか?

12月26日(木)「あまちゃんの『琥珀の勉さん』」
今日は全部「あまちゃん」のお話です!今年の一大ブームになったNHK朝ドラ「あまちゃん」で、塩見さんはご存じ「琥珀の勉さん」を演じました。宮藤官九郎さんが脚本を書くと聞いて、普段自分から「やりたい」と言わないさんちゃんが動いた!作品の中に入りたい、と自らアピールして出演が決まりました。「今思い出しても、素敵な時間だったなあ・・」と目を細める塩見さんに、あまちゃん撮影時のお話をたっぷり伺っています。

12月27日(金)「塩見さんのプライベート」
もうだいたい想像がつくと思いますが、塩見さんは、撮影や稽古のあとみんなで飲みに行くといった場面でも「僕帰ります」と言ってさっさと家に帰ってしまう人です。おうちが好きなんだそうです。来年1月からスタートするNHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」にも出演、日本を代表する名バイプレイヤーの塩見さん、こうしたい、というのがあまりないと言いながら、今後の抱負も話してくれました。

<塩見三省>
1948年1月12日生まれ、京都府出身。同志社大学卒業。
1978年、演劇集団「円」に入団。
中村伸郎、岸田今日子らとともに別役実や太田省吾の舞台作品に出演。
1989年より、つかこうへい作・演出の舞台「今日子」「幕末純情伝」「熱海殺人事件~塩見三省スペシャル」の3連作に出演。
1991年、「12人の優しい日本人」(中原俊監督)を機に映画にも場を広げ、現在は映画、ドラマ、CMなど映像作品を中心に活動している。
2004年、映画「樹の海」(瀧本智行監督)で第15回日本映画批評家大賞・助演男優賞受賞。

12月16日~12月20日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、コシノジュンコさん

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12月16日(月)「おてんばジュンコ」
お母様が題材となったNHK連続テレビ小説「カーネーション」で、子供の頃から有名だったというコシノジュンコさん。
毎年、岸和田のお祭りである「だんじり」で、男性に混じって牽いているほど、活発な女性だったんだとか。絵の勉強のため、東京に上京するのですが、岸和田弁にコンプレックスに感じ、急に無口になってしまったそうです。
初日の今日はコシノジュンコさんの少女時代についてお話をお聴きしました。

12月17日(火)「デザイナーコシノジュンコの交遊録」
文化服装学院で学びながら、デザイナーの登竜門「装苑賞」を受賞した後、次々に仕事がコシノジュンコさんに飛び込んできます。
中でも70年代の芸能界、グループサウンズのお仕事を良くしていたんだそうです。
衝撃的な友達が多かったという当時の交遊録について、お話いただきました。

12月18日(水)「コシノジュンコさんの海外生活」
あこがれだったパリや刺激に満ち溢れいていたというニューヨークに渡り、デザインに磨きをかけていってたコシノジュンコさん。
海外にいた当時のお話をお聴きしました。
また、コシノジュンコさんの恋愛感についてお話をお聴きしてみました。

12月19日(木)「海外セレブとコシノジュンコ」
世界的なデザイナーであるコシノジュンコさん。
当然、海外セレブとのエピソードも色々とあるようで。
特に印象深いというある超有名なアーティストであり、セレブな人物との出来事を中心にお話していただきました。

12月20日(金)「最近のコシノジュンコさん」
国内、国外、性別や年齢を超えた活動をなさっているコシノジュンコさん。それら数々の活動について、熱く語っていただきました。
年齢を感じさせないコシノジュンコスピリッツをお話です。

<コシノジュンコ>
昭和14年8月25日生まれ。文化服装学院在学中に装苑賞を受賞。20歳で銀座に売り場をもち,1960年代の若者文化を象徴する斬新な服作りで人気を博した。昭和53年パリコレクションに初参加。61年外国人としてはじめて中国北京に出店。母・小篠綾子,姉・コシノヒロコ(小篠弘子),妹・コシノミチコ(小篠美智子)も服飾デザイナー。大阪出身。

12月9日~12月13日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、中川翔子さん

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12月9日(月)「父の思い出」
中川さんの父親は中川勝彦さん。物心ついたときはもう、父親は忙しくて家にはあまりいなかったものの、クリスマスの時にはプレゼントを持ってきてくれたそうです。祖母にはいろんなところに連れて行ってもらった中川さん。シャンソン歌手の追っかけにつきあったことからシャンソンは大好き。祖母の遺言は「愛の賛歌を歌えるような大人になりなさい」だったそうです。今はそれを目指したいと思っているとか。

12月10日(火)「パソコンを使い始めて」
タレント活動を始めたところ、行く先々で父のタレント活動の足跡を見ることが多かったそう。独特の趣味を持ち始めましたが、家で一人で楽しんでいました。あるときパソコンを買ってもらってから、世の中にはこんなコアな趣味の人がたくさんいたんだということに気づき家に帰るのが楽しみになったのだそうです。父親への反発心もあったが変身願望もあって芸能界に入ることになったのでした。ジャッキー・チェンさんとの出会いも語ってくださいました。

12月11日(水)「ブログを始めたころ」
ブログを始めたころ、好きなことや趣味を掘り下げて楽しく書こうと思った中川さん。
写真もコスプレやポーズをいろいろ考えて載せ始めました。そうしたら思わぬ反応がたくさん来て「世の中の同じ趣味の人がこんなにいたんだ」と実感したのだそうです。
ネガティブシンキングだったからポジティブに変わったきっかけと振り返っています。
好きな猫の話もしてくださっています。

12月12日(木)「テレビ出演で太ってしまう...」
アニソンと松田聖子さんしか聞いていなかった中川さん。でも思い出すと祖母に連れて行ってもらっていたシャンソンバー。そのころ聞いていた歌の意味が今になってわかるようになってシャンソンの奥の深さに感動し、いずれは熟女になった時にシャンソン歌手になれるように思っているのだそうです。
テレビの「うちくる」で6キロも太ってしまったエピソードも語ってくださいました。

12月13日(金)「母とこれから」
最近、お母様はコンサートツアーに来てくれるのだそうです。しかもコスプレして。
写真誌に掲載されたときは驚いたそうです。将来は子孫を残したいと思っていますが、今はその夢がかなっていないので、エア出産をして、5歳ぐらいの子供に自分のすべてを教え込んでいる姿を妄想して楽しんでいるのとのこと。将来の子供のために漫画や百科事典アンドを買い込んでいるのだそうです。

<中川翔子>
2002年、ミス週刊少年マガジングランプリ。2005年からTBS『王様のブランチ』にレギュラー出演し、知名度が上昇。また、趣味は映画鑑賞・グッズ収集(ブルース・リー、松田聖子、戦隊もの)、特技は広東語・イラストを書くこと(楳図かずおタッチ)と多岐に渡る知識や才能から一般的なアイドルとは一線を画した自称"オタク系"アイドルとして活躍。2003年より始めた公式ブログ『しょこたん☆ぶろぐ』は、2008年2月には総アクセス数10億ヒットを超え、「ブログの女王」の座を不動のものとしている。歌手としてもアニメソングを中心にCDのリリースやライブを精力的に行う。また服や小物を売る自身のブランド「mmts(マミタス)」プロデュースや、描いたキャラクターのスカシカシパンマンが日本でDVD・ゲームとなりアメリカでも活躍するなど、活動内容はますます広がっている。

12月2日~12月6日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、石井竜也さん

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12月2日(月)「子供の頃の話」
石井竜也さんは北茨城市の漁師町の生まれです。小さいころは引っ込み思案な子供で、お墓の文字を指でなぞるのが好き、家では"ふすまっこ"と呼ばれたりもしていました。お父さんの影響で絵を描くようになり、お母さんの勧めで合唱団にも入っている子供でしたが、声変りが遅かったために女の子の中で唄わされてしまい、合唱団はやめてしまいます。
石井さんの御父さんは喫茶店を営んでいました。その頃シャンソンなどを聴いていましたが、これが今に影響しているかもと石井さんは話してくれました。でも、その頃は楽器は全然弾いていなかったのだそうです。

12月3日(火) 「米米CULB誕生」
芸大を受験した石井さんは隣の人のあまりにもうまい絵を見て、自信を無くしてしまいます。そして芸術系の学校である文化学園に通うようになるのですが、ここはいろいろな分野の有名人が自分の思う事を話してくれる、アートの集大成のような自由な雰囲気の学校でした。
石井さんは文化学園で後に米米CLUBのメンバーとなる友人に出会います。初めは皆で「芸術」の名の元にモンティパイソンのような8mmビデオを撮っていたのですが、のちに楽器を持ち、ステージで演奏するグループになりました。この頃、石井さんは自分たちを面白い集団とは意識していなかったのだそうです。そして、イメージしていたのは意外なものでした。

12月4日(水)「カールスモーキー石井と石井竜也」
米米CLUBはすぐに大ヒットを飛ばすようになります。代表的な曲は"君がいるだけで"や"浪漫飛行"だけど、FUNK FUJIYAMAやCOME COME WARのようなラップの曲の方が米米CLUBらしいんだよねと、石井さんは話してくれました。
米米CLUBは結成から8年を過ぎたあたりで解散します。この理由について石井さんは、お祭りは一年中続いているわけじゃないと話してくれました。でも同時に映画の失敗などで落ち込んでいた時に、それを皆に背負わせるわけにはいかないとも考えたのだそうです。
その頃、珍しくお父さんからの電話がありました。この電話がとても石井さんの心にしみたのだそうです。

12月5日(木)「映画監督/アーティスト」 
映画監督などでも活躍している石井竜也さんですが、表現の上では、受け手を裏切るのが好きなのだそうです。ちがう目線で人間を観察し、それを表現する。いつも面白いモノ探しをしているのだそうです。石井さんはきゃりーぱみゅぱみゅさんの大ファンで一緒の画面に映れたら幸せと話してくれました。でも、電車で隣り合わせに座って、それをきゃりーさんがブログにアップしたらブログが炎上してしまったことがあったそうです。
もしかして出している光線がやばいのかも、何か裏があって、周りをつぶしてしまうタイプとおもわれているのかもと石井さんは笑って話してくれました。

12月6日(金)「今後について」 
石井竜也さんは今、故郷、北茨城の現状をいつも気にかけています。東日本大震災で大きな被害を受けたのに、関東ということで忘れられつつあるからだそうです。
そんな北茨城の生んだ偉人が岡倉天心。文明開化の時期にアジアの美術の素晴らしさを説いた人なので迫害されてしまったが、立派な人だったと石井さんは話してくれました。
石井さんの歌には空や海が良く出てきます。これは小さいころ石井さんがいつも海を眺めていて、原風景を歌っているからだそうです。あの頃、他の子どもとはちょっと変わっていたと石井さんは回想します。
石井さんはいま、「角(かど)」が好きなのだそうです。角から見ると前は広がっている。将来は"角にいるだけで"という曲を作りたいぐらい角が好きだと、石井さんは冗談を飛ばしてくれました。

<石井竜也>
85年『米米CLUB』としてデビュー。楽曲、セット、衣装など総合的にプロデュース。また映画監督としても活動の場を広げ、1994年『河童』、1996年『ACRI』を公開する。1997年、米米CLUB解散後(2006年再始動)、ソロ活動開始。大阪『HEP FIVE』の空間プロデュース、『鈴鹿8時間耐久レース』の総合プロデュースや、『愛・地球博』レギュラープログラムの総合プロデューサーを務める。2008年には森アーツセンターギャラリーにて初の大型展覧会『顔魂~KAODAMA~』を成功させ、4月からは日本テレビ『The M』にてMCを、東京ディズニーリゾート25周年イメージソングの作詞、歌唱も行うなど、その活動は留まることを知らない。

11月25日~11月29日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、岩崎宏美さん

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11月25日(月)「 おてんばむすめの恋 」
東京・深川のご出身。チャキチャキの江戸っ子で、子供のころはお転婆だったという岩崎宏美さん。公園で妹の良美さんにブランコの順番を譲ってくれない男の子に立ち向かっていったエピソードなど、なかなかの武勇伝もお持ちです。そんな性格のためか、恋の方はあまりうまくいかなかったようですが...。
岩崎宏美さんの子供時代を振り返ります。

11月26日(火)「 ロマンス 」
TV番組「スター誕生」のオーディションに合格して、高校2年生で歌手デビュー。阿久悠・筒美京平のゴールデンコンビによるデビュー曲に続き、2曲目の「ロマンス」が大ヒットして、岩崎宏美さんの生活は徐々に慌ただしいものになっていきます。それでも岩崎宏美さんは「仕事は忙しくても普段通りの生活」を心掛けていたそうです。
岩崎宏美さんのデビュー当時のお話。印象的だった、あの「おかっぱ頭」の裏話もありますよ!

11月27日(水)「 聖母たちのララバイ 」
仕事が忙しかった20代の頃、ストレス解消の場は専ら六本木のゲイバーだったという岩崎宏美さん。そこのママさん(男性)には色々とお世話になったそうです。そんな時に出た岩崎宏美さんの初スキャンダルが「岩崎宏美、オカマに走る!」(笑) 後半は、大ヒット曲「聖母たちのララバイ」に関するさまざまなエピソードを伺っております。

11月28日(木)「 結婚、離婚 」
30歳で御結婚。お二人の息子さんを授かることになるのですが、旦那様の海外転勤による生活のすれ違いから離婚に至ってしまった岩崎宏美さん。当時は親権の問題で定期的に息子さんに会うことが出来ずに辛い日々を送っていたそうです。岩崎宏美さんにとってはちょっと話し難い話題だったかもしれませんが、とても真摯にお応え下さいました。別れる時はビャービャー泣いていた息子さんも今は二人とも20歳を過ぎ、一丁前に生意気なことを言うまでに成長なされたそうです。

11月29日(金)「 エイプリルフールのプロポーズ 」
50歳で、ずっとお付き合いをしていた10歳下の俳優さんと入籍した岩崎宏美さん。プロポーズをされたのが4月1日だったということで、最初は「これは真剣なのか、冗談なのか...」と、戸惑ってしまったそうです。そんなお二人の幸せなお話をどうぞ!後半は、岩崎宏美さんの最新情報をたっぷりとお届けします。新曲もおかけしますよ!

<岩崎宏美>
1975年『二重唱(デュエット)』で歌手デビュー。二作目の『ロマンス』が大ヒットとなり、第17回日本レコード大賞新人賞をはじめ、数々の新人賞を受賞。その後もヒット曲をリリースし、1982年、火曜サスペンス劇場主題歌『聖母たちのララバイ』で130万枚の大ヒットを記録し、第13回日本歌謡大賞ほか多数の賞を受賞。香港、エジプトでのコンサートを成功させる歌手として様々な実績を上げる中、ミュージカルやドラマなどでも多彩な才能を発揮。デビュー30周年を迎えた2004年、記念BOX『30TH ANNIVERSARY BOX』を発売。2007年、ミュージカル『レ・ミゼラブル』に20周年記念スペシャルキャストとして出演。また同年、チェコフィルハーモニー管弦楽団とのコラボレーションアルバム『PRAHA』をリリースし、国内でもオーケストラとのコンサートに多数出演。妹の岩崎良美とオーケストラとのコンサートも実現。また、チェコフィルハーモニー管弦楽団とのコラボレーションアルバムがきっかけで、2008年4月、チェコ共和国親善大使に任命される。2009年、オリジナルアルバム『Thanks』をリリースした。

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