6月9日(月)「 大阪万博で性に目覚める 」
1959年、大阪生まれの嘉門達夫さんにとって未だに卒業できないのが「万国博覧会 ‐万博」だそうです。
1970年(当時、小学校6年生)の大阪万博では開催前から、建設中のパビリオンを見るためだけに毎日のように会場に通い、開催中には21回の来場。そして、閉幕してからは、夕日をバックに解体される建物を見ながら感傷に浸る ...そんな日々を過ごしていたとのこと。
月曜日は、嘉門達夫さんに、大阪万博について熱く語っていただきました。
嘉門達夫さんが性に目覚めたのも、大阪万博の某パビリオンでした(笑)
6月10日(火)「 落語家を破門 」
大阪万博が終わってポッカリと空いた心の穴を埋めてくれたのが「ラジオ」だったという嘉門達夫さん。高校生になるとラジオに出演する側になりたくて、当時の人気パーソナリティーだった落語家の笑福亭鶴光師匠のところへアポなしの押しかけ入門。運よく入門が認められ、すぐにラジオのレギュラー番組も決まるという、ここまではトントン拍子だったのですが...。
火曜日は、自分のやりたいことが見つかったものの少しずつ夢と現実にズレが生じ始め、ついには鶴光師匠に破門を言い渡されてしまうという、嘉門達夫さんの10代後半から20代前半を振り返っていただきました。
6月11日(水)「 ヤンキーの兄ちゃんのうた 」
嘉門達夫さんが広く世間に知られるようになったきっかけといえば、東西で有線放送大賞新人賞を受賞した「ヤンキーの兄ちゃんのうた」のヒットが挙げられるのではないでしょうか? この曲、初めは自主製作盤だったんだそうです。水曜日は、笑福亭鶴光師匠に破門されて放浪の旅に出た嘉門達夫さんが、紆余曲折を経て芸能事務所アミューズのプロモーターとして活躍。有線放送回りでサザンオールスターズの曲をPRしながら、ちゃっかりと自分の歌も宣伝していたというお話。全ての始まりは某ラジオディレクターが持っていた一本のカセットテープでした...。
6月12日(木)「 『 鼻から牛乳 』 と 『 替え歌メドレー 』 」
これまでに作られた数多くの楽曲の中で、定番曲として生き残るのは20分の1程度と仰る嘉門達夫さん。
木曜日は、その中から「 鼻から牛乳 」、「 替え歌メドレー 」を作った時の裏話を教えていただきました。これに加えて、諸事情によりCDには収められなかった曲も生演奏で披露して下さっていますが、一部"ピー音"が入っております。ご了承下さい。
6月13日(金)「 被災地に対する想い 」
1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災。嘉門達夫さんは「自分にできること」として、被災地でのライヴも精力的に行っておられます。コミック的要素が高い嘉門達夫さんの楽曲。やはり、他のアティーストの方々と同じように、当初は、「自分がこんな歌を歌ってもいいものなのか?」と、心の葛藤があったそうです。
最終日は、嘉門達夫さんの「被災地に対する想い」をお聞きするとともに、ニューアルバムのお話、そして、現在進行中のコンサートツアーについてのお話も伺っております。
<プロフィール>
大阪府出身。1975年、高校在学中に笑福亭鶴光師匠に入門。のちに内弟子になり笑光となる。1978年、『MBSヤングタウン』レギュラー出演。1980年、放浪の旅へ出る。1981年、サザンオールスターズの桑田佳祐と出会い、彼の別名""嘉門雄三""から姓を受け、嘉門達夫と命名される。1983年、『ヤンキーの兄ちゃんのうた』でレコードデビュー、『替え唄メドレー』シリーズなどで、笑いと音楽の融合した独自のジャンルを確立した。1992年、シングル『鼻から牛乳』が大流行し、注目を浴びる。以後もあるあるネタや言葉遊びなどを使用したオモシロソングを中心にリリース。主な作品は、アルバム『お調子者で行こう』『天賦の才能』『怒涛の達人』、シングル『小市民』『NIPPONのサザエさん』『マーフィーの法則』『怒りのグルーヴ~震災編』『さくら咲く』など。