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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

9月26日~9月30日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは山本浩二さん(元プロ野球選手・監督)

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9月26日(月) 「広島での子ども時代」  
広島が25年ぶりのリーグ優勝を果たしました。
山本浩二さんは、テレビなどで観戦していて、ファンの気持ちがやっとわかったそうです。
広島出身の山本浩二さん。
4人兄弟の末っ子で、お兄さんの背中を追って野球を始めました。
地元の公立・廿日市高校ではエースで4番としてチームをけん引しますが、強豪、広陵の前に敗れます。山本さんが語る、疲れ以外の敗因とは...?
山本浩二さんの子ども時代のお話です。

9月27日(火) 「法政三羽がらすの誕生」  
当時、南海ホークスにいた鶴岡一人監督の勧めもあり、法政大学に進学した山本浩二さん。
田淵幸一さん、富田勝さんとともに、法政三羽がらすと呼ばれるなど、活躍されます。
それまでピッチャーだった山本さんが野手に転向した背景には、松永怜一監督の厳しい特訓がありました。
そして、明治大学の同期にいたのが、星野仙一さん。
なかなか打てなかったと当時を振り返ります。
「法政三羽がらすの誕生」というお話です。

9月28日(水) 「カープ入団、そしてミスター赤ヘルへ」  
稀に見るドラフト大豊作の年だった1968年。
指名が2番目だった広島カープは、地元の山本浩二さんを選びました。
しかし、山本さんは阪神に行っていたかもしれなかったそうです。
広島に入団した山本さんはチーム内での競争も刺激となり、ホームラン数が増えていきます。
1975年に広島が優勝すると、赤ヘルの名称は一般的に。
大活躍していた山本さんはミスター赤ヘルの称号を手にします。
しかし、山本さんは腰痛との戦いを抱えていました。
「カープ入団、そしてミスター赤ヘルへ」です。

9月29日(木) 「引退と監督時代」 
1986年、40歳で現役を引退した山本浩二さん。
「4番は全試合に出ないといけない。出られないなら引退」と考えていたそうです。
そして、1989年に監督に就任。重視したのは練習でした。
それは精神力を鍛えるためでもあるとおっしゃいます。
一方、当時の南海は田淵幸一監督、阪神は星野仙一監督。
大学時代から続く3人の関係性についても伺っています。
「監督時代」についてです。

9月30日(金) 「広島カープ、25年ぶりのリーグ優勝」 
リーグ優勝を決めた広島カープ。
きょうは、山本浩二さんに優勝の背景を伺います。
黒田博樹投手、新井貴浩野手の2人のベテランがチームの原動力となり、若手がついていくことで、チームが一つになったと分析してくださいました。
球場はレプリカユニフォームを身にまとったファンでにぎわい、選手も入団を断らなくなった。
広島カープを取り巻く環境は変わったものの、脈々と受け継がれているものがある、と山本さんはおっしゃいます。
広島カープの優勝についてです。

<プロフィール>
昭和44年,広島東洋カープにドラフトー位指名で入団。チームの主砲として活躍し,プロ野球生活18年間で本塁打王4回,打点王3回など多くのタイトルを獲得。最優秀選手やベストナインに何度も選ばれました。 「ミスター赤ヘル」の名で親しまれ、昭和50年にはカープ初優勝の原動力として貢献。平成元年~5年,平成13年~平成17年広島東洋カープ監督。

9月20日~9月21日、23日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストはとよた真帆さん

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9月20日(火)「石好き少女がモデルになったきっかけ」
少女時代のとよた真帆さんは活発な女の子。都内ながら、さまざまな動物を飼っている家で育った真帆さんですが、一番の趣味はなんと石集めでした。大人になってから石と一緒に世界を巡った話を楽しそうに話す真帆さんです。
そんな真帆さんは17歳でモデルになります。真帆さんは芸能事務所へ写真を送り無事採用されたのでした。その事務所を選んだのは、自分がやりたいなぁと思っていた仕事をしている人たちが多数所属していたからだそうです。
でもその後、とよた真帆さんは女優に転向します。実は真帆さんは、モデルという仕事について、あることを感じていたのでした。

9月21日(水)「プライベートのとよた真帆さん」
とよた真帆さんは絵も描いています。映画がポシャってしまい空いてしまった2か月で描いたのがきっかけだそうですが、今では京友禅の柄絵も描いています。伝統の物でも時代によって絵柄は新しくなっていかないとと話す真帆さんです。
そんなとよた真帆さんは映画監督の青山氏と結婚しました。受賞記念の上映を前にしたカンヌのホテルで緊張しきった青山監督に会ったのがきっかけです。母性本能がくすぐられてしまったと真帆さんは笑います。
普段は京都暮らしの青山監督と離れ離れの真帆さんですが、二人は親友同士の様な関係だから大丈夫なのだそうです。青山監督が帰宅すると一匹の猫がとても不思議な迎え方をすると真帆さんは話してくれました。

9月23日(金)「猫だらけの毎日」
とよた真帆さんは今週、フォトエッセイ本を出しました。猫との付き合い方を描いた本ですが、長年猫と暮らしている真帆さんの結論は「猫にはルールは無いので人が猫に従うのが一番」という事なのだそうです。
箱があればネコ用に取っておくと話す真帆さんは、自分も猫のマネをして箱に入ってみました。でも猫のようにはなれません。体型が違うからと話す真帆さんです。
そんな真帆さんは猫の殺処分ゼロへの活動もしています。救えない命はせつないと、それまでとはうって変わって真帆さんはしみじみと話してくれました。

<プロフィール>
17歳から人気モデルとして活躍。1989年フジテレビ『愛し合ってるかい』で女優デビュー。以後、テレビ、映画、CMなど幅広く活動。主な出演歴は、TVドラマ/日本テレビ『竜馬におまかせ!』TBS『SWEET SEASON』、フジテレビ『空から降る一億の星』、映画『極道の妻たち-決着(けじめ)-』『おとなり』『陽だまりの彼女』等。
代表作品:映画「月の砂漠」(2003)/ WOWOW「贖罪の奏鳴曲(2015)」/ 舞台「リア王」(2008) 「私のなかの悪魔」(2013) 「フェードル」(2015)

9月12日~9月16日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは福田彩乃さん

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9月12日(月)「モノマネは親ゆずり」
子どもの頃からモノマネが生活の一部だったという福田彩乃さん。耳に入る音は何でも自然と口から出ていたそうです。初日は、古畑任三郎のモノマネをするお母様と、ミニカーに効果音を付け加えるお父様の間で育った福田彩乃さんの生い立ちにスポットを当てます。
冒頭で毎日繰り広げられる、女優×動物モノマネがあります!こちらもお楽しみに!

9月13日(火)「芸能事務所の全国オーディション」
高校卒業後は職を転々としていたという福田彩乃さん。
精肉店、エステティックを経て、地元・愛知の自動車メーカーでの勤務は公私ともに充実していたそうです。しかしそんなある日、リーマンショックの波が福田彩乃さんを襲います。派遣切りの憂き目から次の仕事を探し始めた頃、友人のススメで受けたのが芸能事務所アミューズの全国オーディションでした。

9月14日(水)「ネタ作りの日々」
全国オーディションのバラエティ部門でグランプリを獲得し、ひょんなことからタレント活動をスタートさせた福田彩乃さん。その頃のモノマネレパートリーは、OL時代の上司や愛犬しかなかったそうです。そして、そこからネタ作りの日々が始まるわけですが...。
福田彩乃さんのニッチなレパートリーの原点は、モノマネ番組の一視聴者として感じた"ある思い"からきているそうです。

9月15日(木)「ご本人との対面」
モノマネ番組でブレークを果たし、数多くのバラエティで活躍中の福田彩乃さん。
「ハイボール飲んでウィー!」とデフォルメされた女優・吉高由里子さんのモノマネなど、かねてより周囲からは「本人に怒られるぞ」と諌められていた福田彩乃さんですが、ある日のこと、ついにご本人と対面するときがやってきて...。

9月16日(金)「人生2度目のお年頃」
プライベートでは結婚ブームの波が押し寄せているという福田彩乃さん。
今年28歳を迎えるにあたって訪れたという、「人生2度目のお年頃」についてお話しいただきます。何でも、好みの男性はリードしてくれる人より、○な人なのだとか...。

<プロフィール>
1988年、愛知県出身。2009年デビュー。
映画:「ヒロイン失格」「マレフィセント」
テレビ:「福田彩乃のハツモノ」「平成猿蟹合戦図」「まっしろ」
   「安堂ロイド~A.I.knows LOVE?~」「ものまねグランプリ」

9月5日~9月9日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは夏樹陽子さん

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9月5日(月) 「幼少期からモデル、役者になるまで」
芸能生活40周年を迎える夏樹陽子さん。幼少期は三重、大阪、愛知といろいろな土地で育ってきました。子供の頃は活発で、ゴーカートが好きだったという夏樹さん。幼少期の思い出話と共に、子供時代をお話しいただきました。
そして高校時代はピアノに熱心で、歌にも興味を持っていらっしゃいました。芸能界に興味はなく、ピアノの先生を夢みていたという夏樹さん。高校を卒業し短期大学に進学し、どのようにモデルに、そして役者になっていったのかを伺いました。

9月6日(火) 「役者デビュー」
モデルでの仕事をしていた夏樹さんですが、当時のモデルは若い人が中心。将来を考え、色々な道を探していました。CMなどで色々な衣装を着る機会が多かった夏樹さんは、衣装により気分が変わり、すぐ衣装に合わせたキャラクターに成りきる性格から、女優に向いているのでは?と思い始めます。知り合いに紹介してもらい、秘書役で役者としての一歩目を歩き始めます。最初はたった2行のセリフでしたが、未だに忘れないという2行のセリフ。役者としてのデビュー当時を語っていただきました。

9月7日(水) 「役者としての活躍」
テレビドラマ「暴れん坊将軍」に御庭番・「おその」として4年間出演した夏樹さん。当時の撮影の思い出をお話しいただきました。そして長い間参加したドラマが終わる時、夏樹さんがどのように考えていたのかも伺いました。他にも「トラック野郎」に出演した際の菅原文太さんのエピソードも披露していただきました。そして2時間のサスペンスドラマ犯人役の多さゆえ持つ、独特な悩みなどもお話しいただきました。

9月8日(木) 「役者以外の顔」
ジュエリーデザイナーとしても20年を迎えた夏樹さん。オリジナルジュエリー「ルシオラ」の由来を伺いました。デザインをどのように考えているかなど、「デザイナー夏樹陽子」にお話しいただきました。
そしてもう一つの顔、「レーサー夏樹陽子」。なぜ車が好きになったのか、そしてフォーミュラーカーレースにも参加していた夏樹さんに、レースの魅力、車の魅力をたっぷり語っていただきました。

9月9日(金) 「40周年の先」
最近はバラエティーでも注目を浴びる夏樹さん。バラエティーに参加することになったきっかけをお話しいただきました。
芸能生活40周年を記念し作られたCD『よこはまメランコリー』。夏樹さんが27歳の時発売されたレコードをそのままCD化し、当時の夏樹さんの歌声を甦らせた曲を紹介していただきました。
さらに映画『函館珈琲』に出演されるという夏樹さんに、役どころを伺いしました。
最後に音楽、映画、バラエティーと幅広い活躍をされている夏樹さんに、今後の仕事、プライベートについて伺いました。

<プロフィール>
三重県伊勢市出身。女優としてテレビや映画で活躍。主な出演作品に、テレビ朝日『暴れん坊将軍』、TBS『渡る世間は鬼ばかり』、映画『さそり』『平成金融道"裁き人"』、舞台『サウンド・オブ・ミュージック』『青い月のバラード』など。『元気に若々しく生きる方法』『夢をかけるには』などの講演も行っている。
代表作品:テレビ朝日『暴れん坊将軍』(レギュラー) / TBS『渡る世間は鬼ばかり』 / 映画『さそり』(三代目主役)

8月29日~9月2日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは風間トオルさん

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8月29日(月) 「バスを待っている間」
子供のころご両親が離婚、一緒に暮らしていた父親もいなくなり、父方の祖父母と暮らしていた少年時代。とても貧乏だったのですが、あまり苦にせず楽しい日々を過ごしていました。このころ、公園に生えていた草をよく食べていたそうです。どうやって食べられる草を見分けていたのか?子供なりの技を教えてもらいました。バスを待っている時間の過ごし方は秀逸です。

8月30日(火) 「芸能界の入り口」
中学生ぐらいからサーフィンを始めていた風間さん。ボードは貧乏で買えなかったのですが、友達が付かれてた時に借りてやっていたら、すぐにできたそうです。その後、デザイン学校に入りますが授業料を稼ぐためにいくつものバイトを掛け持ちしていました。そのバイト先のカフェで会う人がモデルをやらないかと声をかけてきました。芸能界への入り口がそこにあったのです。

8月31日(水) 「下手すぎる演技」
モデルをやっているうちに、あるインタビューで女優の浅野ゆう子さんから俳優へのお誘いをうけます。最初は断っていたのですが、結局やることに。でも、浅野さんは放送を見たらあまりの演技の下手さに倒れたそうです。でも縁があって俳優の仕事は続いていきます。そんな時出演した映画「大誘拐」ではじめて演技の面白さや心構えに気づいたのだそうです。ベテラン俳優さんの優しい心使いに感謝しているそうです

9月1日(木) 「冷静な不死身の男」
風間さんは海外ロケでチベットの山奥でテントの周りにオオカミが来ても寝ていた...とか飛行機が着陸に失敗して林に突っ込んだなど一歩間違えたら死んでいたかもしれないハプニングに遭遇します。飛行機が林に突っ込んだ時の冷静な判断についての話に邦丸さんが食いつきます。子供のころ交通事故にあった話もしてくださいます。

9月2日(金) 「生きていく上でのモラル」
生きていく上でのモラル、レディーファースト、重いものを持ったおばあちゃんがいたら手伝うなどは祖母からしっかりと教わったそうです。風間さんの理想の女性に対する考え方について、して、将来挑戦したいことについても伺いました。

<プロフィール>
1962年、神奈川県生まれ。雑誌モデルとして人気を博し、1989年にフジテレビ『ハートに火をつけて』で俳優デビュー。以後、人気ドラマに多数出演。若い女性を中心に支持を得る。1993年、映画『わが愛の譜 滝廉太郎物語』で主演を務め、日本アカデミー賞優秀主演男優賞受賞。以後、テレビ朝日『はみだし刑事情熱系』、NHK『パパトールドミー』などで俳優として幅広い層から支持を得る。舞台にも挑戦し、活躍の場を広げている。
■デビュー作:フジテレビ『ハートに火をつけて』
■代表作品:NHK『七色のおばんざい』 / フジテレビ『ハートに火をつけて』 / テレビ朝日『はみだし刑事情熱系』

8月22日~8月26日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは細川ふみえさん

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8月22日(月)「デビューのキッカケ」
子供の頃、なんども引越し・転校をした細川ふみえさんはとても活発な女の子。昆虫を育てたりみんなの前で体操を披露したりしていましたが、ミスマガジンコンテストの募集記事を見つけて、応募してみる事に。
そしてデビューが決まり、元祖、巨乳グラビアアイドルの草分けとなったフーミンですが、実はフーミンのバストは成長が遅く、本人に巨乳という意識は無かったのだそうです。あれよあれよという間にバストを強調したグラビアが出来上がっていましたが、後にそのブラにはすごいあだ名がついだのだそうです。それは・・・。

8月23日(火)「ギルガメッシュナイト」 
デビューしてから細川ふみえさんは連日のグラビア撮影をこなしていました。恥ずかしさを忘れないようにといつも自分に言い聞かせていたとフーミンは当時を振り返ります。
そんなフーミンの初司会番組が「ギルガメッシュナイト」。ぜんぶセリフが書き込まれた台本を用意してもらうなどスタッフに助けられての司会でしたが、一番うれしかったのはここで「フーミン」という愛称が付いた事でした。そして、後に母となったフーミンは、意外な処でこの愛称に出会う事になります。

8月24日(水)「女優として」 
細川ふみえさんのヒットCMと言えばバスロマン。お湯は飛ぶし頭の上の飾りは重い。おまけに時間は長いと大変な撮影だったのだそうです。でも、やってよかったと、心温まるエピソードもフーミンは話してくれました。
もともと演じることをやりたくて芸能界入りしたフーミンは、演技の仕事があったら睡眠時間を削ってでもやりたいと事務所の社長に伝えていました。その甲斐があって水戸黄門などに出演したフーミンでしたが、何十回もNGを出してしまったときには思わず帰り道で泣いてしまったのだそうです。泣きながらも、悔しいから次はがんばろうと思った・・・、努力家のフーミンです。

8月25日(木)「プライベートについて」
細川ふみえさんは料理が得意、昔から自分で作るようにしています。お母さんが病弱だったから、早くから教わったのだそうです。でも魚はさばけないので、さばけるような恋人が欲しいと笑うフーミンです。でも笑った後で、人生は急にお大波に巻き込まれることもあるから、なんとかなる、何とかなると思っていてもなんとかならない事もあるからと、ちょっと思わせぶりな話も出てきました。
一番心細かったのは?と訊いてみた処、意外な事に10代の頃の話をしてくれたフーミンですが、今は、マイナスの事を考えない、マイナスの言葉を使わないという事を心がけているのだそうです。

8月26日(金)「朗読・そしてこれから」
細川ふみえさんの芸能界復帰のきっかけの一つは読み聞かせ。ライフワークとしてやっていけたら幸せと話すこのイベントは、音楽と朗読を組み合わせたものです。一つの空間がジェットコースターのように動いていくと話すフーミンです。
子供が小さかった時いけるイベントが少なかったから、親子で出かけられるイベントをと話すフーミンですが、これからについて伺ったときには、いままでは子供軸、母親軸ばかりだったから、そろそろ自分軸を取り戻したいと話してくれました。

<プロフィール>
1971年、千葉県生まれ。
★代表作品
映画「釣りバカ日誌」「菊次郎の夏」「千年の恋~ひかる源氏物語」「昭和歌謡大全集」
CM アース製薬「バスロマン」 
舞台「台所太平記」

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そして、今週はSPウィークということで、「ラジオ サロンdeくにまる 特別編」もあります!ゲストは、島田洋七さん。 shimada_kunimaru.jpg   

8月23日(火)「がばいばあちゃんとの生活」
島田洋七さんが執筆し、ベストセラーになった御本「佐賀のがばいばあちゃん」にも書かれているとおり、島田洋七さんは子供の頃、祖母=がばいばあちゃんと一緒に暮らしていました。初日は、佐賀での、当時の二人の生活にスポットを当てます。
小学5年生になった洋七少年が、ふと気付いてしまったのが「もしかして、うちって貧乏なの?」ということ。この疑問をがばいばあちゃんにぶつけてみたところ、がばいばあちゃんの答えは...?

8月24日(水)「アルバイトで大失敗」
高校卒業後は知り合いの八百屋さんで働いて生計をたてていた島田洋七さん。ある日のこと、島田洋七さんは、市場のセリで、信じられないほど大量の白菜をセリ落とすという大失敗をやらかしてしまいます。倉庫に入りきらず、お店の前に山のように積まれた白菜を目にして呆然とした島田洋七さんでしたが、あるアイデアが閃いて...。

8月25日(木)「浮き沈み人生」 
漫才コンビ「B&B」で一世を風靡した島田洋七さん。漫才ブームが去ると講演活動なども始められ、そこで話されていたのが、がばいばあちゃんとの貧乏話でした。この話をいたく気に入ってくれたビートたけしさんのススメにより、「佐賀のがばいばあちゃん」書籍化となるわけですが、最初は周りの反応が冷たかったようです。
木曜日は、「佐賀のがばいばあちゃん」の人気に火がつくまでを振り返ります。

8月26日(金)「佐賀への移住」
16年前に生活の拠点を佐賀へと移した島田洋七さん。そこには、さまざまな理由があったようです。最終日は、その辺りのことを詳しく伺います。
後半は、島田洋七さんが開会宣言をお務めになるイベント「東京ポッチャリコレクション」のお話。タイトルからも容易に
想像がつくように、おデブっこのためのファッションイベントです。番組でもお世話になった雑誌「Mr.Babe」の企画ですので、興味がある方は、是非!

<プロフィール>
1950年、広島県生まれ。主な出演作に映画『島田洋七の佐賀のがばいばあちゃん』、RKB毎日放送『豆ごはん』、KBC九州朝日放送『島田洋七の朝から言わせろ!』、本『佐賀のがばいばあちゃん』など、幅広く活動中。

8月15日~8月19日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは伊藤かずえさん

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8月15日(月)「幻の演歌歌手時代」
かなり内気だったという子どもの頃、お母さまに児童劇団を勧められたことがキッカケでお芝居の世界に足を踏み入れたという伊藤かずえさん。
エキストラとしてロボコンやゴレンジャーなどの特撮モノに次々と出演しますが、一方オーディションではなかなか苦労したんだとか。理由は「顔が大人っぽかった」から。
初日の今日はデビューのキッカケ、さらにはあまり聞かれることがなかったという演歌歌手時代のエピソードも伺っています。

8月16日(火)「不良少女とよばれて」
1984年、大映ドラマ「不良少女とよばれて」で長沢真琴役を演じた伊藤かずえさん。
今日はその頃のエピソードを中心にお話を伺います。
大映ドラマの特徴といえば、まるでマンガのようなセリフの数々。
「お父さん、頭の中がスパゲティーになっちゃうよ」とはどういう意味なのでしょうか!?真意は放送でお確かめください!

8月17日(水)「愛車遍歴」
「不良少女とよばれて」をキッカケに、大映ドラマには欠かせない存在となった伊藤かずえさん。その後、伝説の大ヒットドラマ「スクール☆ウォーズ」にも出演。白馬にまたがり、手にレモンを持っている謎の少女とその母親の二役を演じました。当時の共演者とは今でも旅番組で一緒になることが多く、お酒を飲みながら昔話に花を咲かせるのだとか。
そして伊藤かずえさんといえば、忘れてはならないのが自動車のお話。3日目の今日は、シーマに至るまでの愛車遍歴を伺います!あの懐かしい名車の数々が飛び出しますよ!

8月18日(木)「あふれるシーマ愛」
最近はシーマの取材を受けることが多いという女優の伊藤かずえさん。
今日は、25年乗り続けているという愛車・初代日産シーマのお話を中心に伺います。
長年走っていると、付き物なのが車の故障。今までに直した箇所は、塗装・オーディオ・ナビ・エアコン・エンジン・ミッションなど数知れず...。
それでも「まだまだ長く乗っていたい」という、シーマ愛についてたっぷりと語っていただきます。

8月19日(金)「旅番組で叶えたい野望」
近頃はスイミングクラブのアクアビクスで体を動かすことにハマっているという伊藤かずえさん。最終日の今日は、多趣味なプライベートのお話を中心に伺います。
そして、旅番組で様々な場所を訪れている伊藤かずえさんですが、実はまだ叶っていない野望があるのだとか...?お酒好きな伊藤さんらしいエピソードです。

<プロフィール>
神奈川県出身。1978年デビュー。1984年、TBS『スクールウォーズ』のヒロイン役でブレイク。翌年放送のTBS『ポニーテールはふり向かない』で主人公を好演し、テレビドラマには欠かせない存在となる。その後、年齢を重ねるにつれ、大人の魅力あふれる演技で女優としての地位を確立。出産以降は主婦タレントとしても活躍。趣味は洋裁、インラインスケート、スキューバーダイビング、乗馬。主な出演作にNHK教育『趣味悠々 石飛博光のステップアップ現代書道』TBS『はなまるマーケット』『名もなき毒』
代表作品:フジテレビ『新・牡丹と薔薇』(2015) / 映画『媚空』(2015) / TBS『天皇の料理番』(2015)

8月8日~8月12日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは湯原昌幸さん・荒木由美子さんご夫婦

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8月9日(火)「二人の芸能界入り、二人の出会い」
タレントスカウト番組に参加したことで芸能界に飛び込んだ湯原昌幸さん。「第1回ホリプロタレントスカウトキャラバン」のオーディションに参加することで芸能界入りした荒木由美子さん。お茶の間の人気者になっていく湯原さん、アイドルとして活躍を始めた荒木さん。そんなお二人が初めて出会ったのは、博多でのイベントでした。お二人にその時の第一印象をお話いただきました。そして初めての出会いから結婚に至るまでの経緯を伺いました。

8月10日(水)「結婚、そして介護」
芸能界でバラエティーを中心に活躍していた湯原さん、そしてアイドルの荒木さん。お二人は13歳の年の差結婚をしました。結婚後は湯原さんのお母様と一緒に3人での生活がスタートすることになりました。結婚して2週間後に血栓でお母様は手術を受けることになり、家のことは荒木さんが全て取り仕切るように。その後徐々にお母様が認知症の症状がでるようになります。お二人の介護についての体験をお話いただきました。そして夫婦間のコミュニケーションを、どのようにとっていたのかもお話いただきました。

8月11日(木)「きっかけ」
とある日に湯原さんが家族をお寿司に誘いました。その頃は、貯金を切り崩しながらの苦しい生活をしていた時期でした。お二人に、その頃の心情を涙と共にお話いただきました。やっぱり歌を歌いたい、アルバムを作りたいという夢を追いかけた湯原さん。色々なことを乗り越えてきたお二人の考え方について伺いました。
現状を打破したかった湯原さんの覚悟、それを支える荒木さんの覚悟。夫婦で歩んできた過去を振り返っていただきました。

8月12日(金)「夫婦の今後」
苦しい時期に作ったアルバムをきっかけに、湯原さんは歌手としての人生を改めて送り始めます。そして荒木さんは子供も育ち、家庭が落ち着いていたものの、表舞台に立つことには消極的でした。姑さんの介護の体験を本にしないかという話も、半年間断り続けていました。その荒木さんを後押ししたのは湯原さん、そして息子さんでした。
荒木さんの講演会、そして湯原さんの歌。お二人が活動を一緒にすることが理想という湯原さん。湯原さんの最新シングル「マッチ」をご紹介しながら、お二人の今後を伺いました。

<プロフィール>
湯原昌幸
スウィング・ウエスト」(後に「ザ・スウィング・ウエスト」)のボーカルとして活動後、ソロでデビュー。その後、軽妙な語り口でテレビやラジオでお茶の間の人気者に。現在も歌手活動とタレント業を行う。

荒木由美子
第1回ホリプロスカウトキャラバンで審査員特別賞を受賞しデビュー。アイドルとして活躍し、歌手活動と共に司会や「燃えろアタック」などのドラマの主役をはじめ数々の番組に出演。23歳で湯原昌幸と結婚し引退。20年にわたって介護していた義母を見送り、芸能界復帰。現在はラジオやテレビのコメンテーター、介護や家族にまつわる講演で活躍中。

8月1日~8月4日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは陣内孝則さん

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8月1日(月)「ロッカー 陣内孝則」
目立つことが大好きだった陣内孝則さんは、高校2年の時にザ・ロッカーズというバンドを結成します。博多のコンテストでグランプリ、東京へ進出と順調なスタートを切ったロッカーズでしたが、なんと数年で解散してしまいました。生活も一緒だったのでメンバーの間がギクシャクしてしまったのです。
ロッカーズは人気がありましたが、時には会場にお客さんがほとんど居ない事もありました。ロッカーズのメンバーはこれも「活動をやめた方がいいか」と受け取ってしまったようです。でも、ビックになる人ならばたぶんここで考えるんだろうなと、当時を思い出して話す陣内さんです。

8月2日(火)「俳優としての活動」
陣内孝則さんの最初は映画「爆裂都市」の主演。俳優経験が無くてどうして良いかわからない中、「あんまり芝居しなくていいから」と言われて更にわからなくなってしまった陣内さんでした。
そんな中、桑名正博さんに紹介されたのが、演出家の青井陽治さんの舞台です。暴走族でサディストな歯医者という役は滅茶苦茶でしたが、それが功を奏して陣内さんが舞台に出てくるだけでお客さんが笑って拍手をしてくれたのです。これで俳優という仕事が面白くなってしまった陣内さんです。
その後、陣内さんはドラマで人気が出ます。後の月9ドラマです。この頃のドラマは撮り方が滅茶苦茶だったと陣内さんは当時を振り返ります。
俳優として名前が売れてきた陣内さんが結婚したのは倉本總さんの後押しがあったから。倉本總さんらしいエピソードを陣内孝則さんは話してくれました。

8月3日(水)「プライベートについて」
休日は馬券を買いに行くと言う陣内さんですが、最近はまっているのは昔のギャング映画だそうです。紙芝居のような映画だけど今の映画に無い面白みがあると陣内さんは話します。ちなみに映画の友はアイスキャンディーのガリガリ君だそうです。
福岡会の話も伺ってみました。福岡出身の人たちが集まる(俳優、ミュージシャン等の)会ですが、凄い人が集まるようになってしまい逆に会は開きにくくなってしまいました。福岡出身者は郷土愛にあふれていると話す陣内さんです。
福岡出身者の俳優の数そのものも増えましたが、これには自分も少し関わっているのではないかと陣内さんは話してくれました。それは・・・。

8月4日(木)「新舞台の話・今後について」
この夏に、平将門に取り付かれた織田信長を陣内さんは演じます。極悪非道でありながら実は・・・と、落ちのある役どころです。プロジェクションマッピングを活用するので従来とは違うスケールの演劇になると陣内さんは話します。
これからどんな役をやってみたいかと伺ったところ、いろいろな役の中で悪役が一番面白かった、とことん悪い人を演じてみたいのだそうです。そして、百の演技力よりも一つの当たり役、そして脚本がおもしろいのが一番なのではないかとも話す陣内さんでした。

<プロフィール>
1958年生まれ、福岡県出身。博多"めんたいビート"を代表する伝説的ロック・バンド"ザ・ロッカーズ"のヴォーカリストとして80年にアルバム『フー・ザ・ロッカーズ』でメジャー・デビュー。バンド解散後はソロとして活動。82年に映画『爆裂都市 BURST CITY』に出演し、役者としての才能も開花。以後、個性派俳優として映画やTVドラマなどで幅広く出演。

7月25日~7月29日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは鶴岡雅義さん

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7月25日(月) 「『小樽の人よ』でデビュー」
鶴岡雅義と東京ロマンチカのリーダー、鶴岡雅義さん。
デビュー曲「小樽の人よ」がいきなりヒットしましたが、鶴岡さんは、曲を出してレコード会社の所属になれればいい、と考えていたそうです。
もともと東京ロマンチカのメンバーのエピソードを基にした曲ですが、舞台は小樽ではなく、釧路でした。
行ったこともなかったという小樽には、その後何度も足を運び、観光大使にまでなりました。
デビュー曲『小樽の人よ』に関するお話です。

7月26日(火) 「レキントギターと二匹目のどじょう」
もともとクラシックギターを演奏していた鶴岡雅義さん。
このままではクラシックギター奏者で終わってしまう、歌謡界に入りたいと思っていた頃、トリオ・ロス・パンチョスのレキントギターを見て、「これだ」と思ったそうです。
そして、曲は「小樽の人よ」のヒットを受け、二匹目のどじょうを狙って作られた「旅路の人よ」はレコード大賞の歌唱賞を獲得。
しかし、さすがに三匹目はいなかったと鶴岡さんは笑って振り返ります。

7月27日(水) 「古賀メロディと『君は心の妻だから』」
1969年のヒット曲「君は心の妻だから」。
リリースした時は、「古賀メロディのマネ」「古すぎる」と酷評されたそうです。
しかし、鶴岡雅義さんは曲作りの段階で「古賀メロディ風にしよう」と考えていました。
曲が売れ始めた頃、古賀政夫さんにこの曲のことを報告すると、古賀さんの返事は「古賀メロディではない、鶴岡メロディだ」でした。
鶴岡さんは、その言葉の意味を深く考えていましたそうです。

7月28日(木) 「『夜のヒットスタジオ』でのコント」
人気番組「夜のヒットスタジオ」に出演していた鶴岡雅義さん。
ヒゲの芸者などでコントに挑戦すると、まごつく表情に注目が集まり、「アップに堪えられる顔」という肩書きまで生まれました。
やりたくなかったコントですが、コンサートに行けばその話題で大盛り上がりだったそうです。
おかけする曲は「北国の町」。
実は、「やっつけ仕事」でできた曲でした。
お話は、「夜のヒットスタジオ」でのコントについてです。

7月29日(金) 「東京ロマンチカのこれから」
82歳でも身体の悪いところがないという鶴岡雅義さん。
曲作りは、フレーズが浮かべば完成したようなものだとおっしゃいます。
それでも、レキントギターを演奏する指は動かなくなってきているそうです。
曲は2003年にリリースした「花かげのひと」。
今後の目標はとにかく、東京ロマンチカを続けていくこと。
そして、ギターを弾く機会を持ち続けることです。
東京ロマンチカのこれからのお話です。

<プロフィール>
古賀政男より作曲について学び、阿部保夫よりギターを学ぶ。昭和35年にラテングループ『トリオ・ロス・カバジェロス』を結成。昭和40年作曲家としてのデビュー曲「二人の世界」を発表。石原裕次郎が歌唱し大ヒット。昭和41年『鶴岡雅義と東京ロマンチカ』を結成。昭和42年からグループを基盤に「小樽のひとよ」「旅路のひとよ」「君は心の妻だから」を発表しいずれも大ヒットする。テレビでは「アップにも耐える顔」としてコントなどでも活躍。現在グループの活動と作曲家として活躍。

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