終わりよければ・・・(放送終了)

9月26日~9月30日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは山本浩二さん(元プロ野球選手・監督)

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9月26日(月) 「広島での子ども時代」  
広島が25年ぶりのリーグ優勝を果たしました。
山本浩二さんは、テレビなどで観戦していて、ファンの気持ちがやっとわかったそうです。
広島出身の山本浩二さん。
4人兄弟の末っ子で、お兄さんの背中を追って野球を始めました。
地元の公立・廿日市高校ではエースで4番としてチームをけん引しますが、強豪、広陵の前に敗れます。山本さんが語る、疲れ以外の敗因とは...?
山本浩二さんの子ども時代のお話です。

9月27日(火) 「法政三羽がらすの誕生」  
当時、南海ホークスにいた鶴岡一人監督の勧めもあり、法政大学に進学した山本浩二さん。
田淵幸一さん、富田勝さんとともに、法政三羽がらすと呼ばれるなど、活躍されます。
それまでピッチャーだった山本さんが野手に転向した背景には、松永怜一監督の厳しい特訓がありました。
そして、明治大学の同期にいたのが、星野仙一さん。
なかなか打てなかったと当時を振り返ります。
「法政三羽がらすの誕生」というお話です。

9月28日(水) 「カープ入団、そしてミスター赤ヘルへ」  
稀に見るドラフト大豊作の年だった1968年。
指名が2番目だった広島カープは、地元の山本浩二さんを選びました。
しかし、山本さんは阪神に行っていたかもしれなかったそうです。
広島に入団した山本さんはチーム内での競争も刺激となり、ホームラン数が増えていきます。
1975年に広島が優勝すると、赤ヘルの名称は一般的に。
大活躍していた山本さんはミスター赤ヘルの称号を手にします。
しかし、山本さんは腰痛との戦いを抱えていました。
「カープ入団、そしてミスター赤ヘルへ」です。

9月29日(木) 「引退と監督時代」 
1986年、40歳で現役を引退した山本浩二さん。
「4番は全試合に出ないといけない。出られないなら引退」と考えていたそうです。
そして、1989年に監督に就任。重視したのは練習でした。
それは精神力を鍛えるためでもあるとおっしゃいます。
一方、当時の南海は田淵幸一監督、阪神は星野仙一監督。
大学時代から続く3人の関係性についても伺っています。
「監督時代」についてです。

9月30日(金) 「広島カープ、25年ぶりのリーグ優勝」 
リーグ優勝を決めた広島カープ。
きょうは、山本浩二さんに優勝の背景を伺います。
黒田博樹投手、新井貴浩野手の2人のベテランがチームの原動力となり、若手がついていくことで、チームが一つになったと分析してくださいました。
球場はレプリカユニフォームを身にまとったファンでにぎわい、選手も入団を断らなくなった。
広島カープを取り巻く環境は変わったものの、脈々と受け継がれているものがある、と山本さんはおっしゃいます。
広島カープの優勝についてです。

<プロフィール>
昭和44年,広島東洋カープにドラフトー位指名で入団。チームの主砲として活躍し,プロ野球生活18年間で本塁打王4回,打点王3回など多くのタイトルを獲得。最優秀選手やベストナインに何度も選ばれました。 「ミスター赤ヘル」の名で親しまれ、昭和50年にはカープ初優勝の原動力として貢献。平成元年~5年,平成13年~平成17年広島東洋カープ監督。