9月14日(月)「もう大阪には戻らない」
神田川の作詞などで活躍されている喜多條さん。実家は大阪のこんぶ問屋さん。子供のころは病弱でなかなか外で遊べない少年でした。その後、病状は回復します。大学受験の時に受験願書の書類の中の戸籍を見たところ、やさしかった親戚のおばさんが実は母だったということがわかります。びっくりして受験のため上京する新幹線の中で泣いたそうです。そこで、もう大阪に戻らないと決心したそうです。
9月15日(火)「人形劇と同棲時代」
早稲田大学に入学。サークル活動は人形劇のサークルに入ったのだそうです。理由は童話が書きたかったから。人形劇をやることになったのですが背が高いので、舞台の下で隠れきれない。ものすごい体勢で人形を操っていたそうです。学生運動にも参加。その頃同棲した恋人がいたのですが、ある日、カレーを作っている彼女の後ろ姿にある思いが募ってきます。それが後に名曲「神田川」につづられることになります。
9月16日(水)「文化放送との出会い」
大学を退学した喜多條さんは、いろんな仕事をし始めます。
飛び込みのセールルスの仕事をしていた喜多條さん。写真パネルを店舗に置いてもらうのが仕事。営業成績は一番でした。ある日、文化放送に人形劇サークル時代の先輩がいるのを思い出し訪ねていきます。文化放送で面談したところ、先輩から放送台本を書かないかと誘われます。月給50万円を振り捨てて翌日から文化放送に出入りするようになります。初めての給料は2万円でした。失敗した時の立ち直り方エピソードは必聴です。
9月17日(木)「この川は神田川」
文化放送で放送作家をしていた喜多條さん。ある日、原稿を書いているとそれを覗き込む気配がする。振り返ると南こうせつさん。「原稿が書くのが早いですね。そのスピードなら僕の曲の詩もあっという間に書けますよ」興味もあって試しに書いてみたらすぐに曲ができた。3曲目の作詞を頼まれますが締切がその当日。でも学生の頃の同棲時代をを思い出し、「神田川」の詩が出来上がります。こうせつさん、すぐに曲をつけます。その時間なんと2分ほど。あっという間の出来事でした。
9月18日(金)「赤ちょうちん」
喜多條さんの代表曲の一つ「赤ちょうちん」についてのお話です。仕送りをすぐに古本代に使ってしまうのでお金がなかった。食費を切り詰めるのでキャベツばかりを食べていたそうです。大学の近くのおでんの屋台のおじさんのエピソードもあり、いつからは出世払いをと心に誓った喜多條さん。でもある時からぱったりと姿を見せなくなったのです。おでん屋さんへの思いを募らせ名曲「赤ちょうちん」が出来上がるのです。
<プロフィール>
1947年大阪生まれ。かぐや姫に提供した「マキシーのために」で作詞家デビュー。73年、「神田川」がミリオンセラーとなる。「メランコリー」(梓みちよ)、「やさしい悪魔」(キャンディーズ)、「凍て鶴」(五木ひろし)など数多くの歌手に作品を提供。
主な著作に「この街で君と出会い」「ホーキを忘れた魔女たち」(立風書房)、「女房逃ゲレバ猫マデモ」(幻戯書房)など。
現在、日本作詞家協会常務理事も務める。