9月7日(月)「俳優を目指して東京へ?」
1950年、愛知県にお生まれになった奥田瑛二さんは、小学校5年生の時に既に俳優になろうと思っていたそうです。高校3年生の時に、俳優になるために東京の大学に行きたいと告白したところ市会議員だった父親は大反対!そこで「政治家になるために東京に出て勉学に励み地元に戻って来る」と、説得したところ、やっと許してくれましたが、その条件が衆議院の先生の家に住むことでした。しばらくは書生として、その先生のお手伝いをしていましたが、21歳の時にその家を飛びだしてしまいます。初日の今日は、その時の心境を伺いました。
9月8日(火)「俳優めざして第一歩」
21歳で議員さんの家を飛び出した奥田さんは、劇団に入ろうとしますが、タイミングが悪く入団試験を受けることさえ出来ません。途方に暮れていた時に、高校の先輩に俳優の天知茂さんがいたことを思い出します。弟子にしてもらおうと自宅まで押しかけますが天知さんに会うことは出来ず、奥様には諦めるよう諭されます。しかし、あきらめきれず何度も何度もご自宅に通い奥様にお願いし続けるうちに、その熱意が伝わったのか天知さんの事務所に行くように言われるのですが・・・。
9月9日(水)「俳優としてデビュはーしたものの・・・」
子ども向け番組「円盤戦争バンキッド」の主役として念願の俳優デビューを果たします。
しかし「子供向け番組」つまり「じゃり番」と馬鹿にされ、次のオーディションでは書類を見ただけで落とされてしまったそうです。その後、全く仕事は入らず家賃も払えず、とうとうアパートを追い出されてしまいます。そんな時、友人に誘われて行った誕生日パーティーで出会った女性が、後に奥様となる安藤和津さんですが、その時のエピソードをお話頂きました。
9月10日(木)「男女7人夏物語」
なんとか俳優として仕事が来始めた奥田さんにTVドラマ「男女7人夏物語」に出演しないかというオファーが来ます。しかし共演者が明石家さんまさん、片岡鶴太郎さんと聞き「お笑いの人とは一緒に仕事は出来ない」と断ってしまいます。しかし大女優である大竹しのぶさんが出演するからと説得され、引き受けることになりました。トレンディドラマの元祖とも言われるドラマの制作秘話をたっぷり伺いました。
9月11日(金)「主演映画『赤い玉、』」
9月12日から奥田瑛二さんの主演映画「赤い玉、」が公開されます。この映画を通して、団塊の世代を過ぎた大人たちへどのようなメッセージを伝えたかったのでしょうか?そして「赤い玉」とは?映画の見所や奥田さんの思いなど、たっぷりと伺いました。お孫さんが生まれ、おじいちゃんになった奥田さん。最後にはもちろん「これからやりたいこと」についてもお話を伺いました。
<プロフィール>
1979年、にっかつ『もっとしなやかに もっとしたたかに』(藤田敏八監督)で主役に抜擢され、頭角を表わす。
1986年『海と毒薬』(熊井啓監督)で毎日映画コンクール 男優主演賞受賞。
1989年『千利休・本覚坊遺文』(熊井啓監督)日本アカデミー主演男優賞。
1994年『棒の哀しみ』(神代辰巳監督)ではキネマ旬報、ブルーリボン賞など9つの主演男優賞を受賞する。
2001年、映画『少女~an adolescent』を初監督。以降『るにん』『長い散歩』『風の外側』と作品を送りだし、2006年『長い散歩』は第30回モントリオール世界映画祭グランプリ・国際批評家連盟賞・エキュメニック賞の三冠を受賞。
2013年、監督最新作『今日子と修一の場合』(安藤サクラ・柄本佑主演)が公開。