8月10日(月)「音無さんの少女時代」
音無美紀子さんは6人姉妹の4番目。服はお下がりがあたりまえという大家族ならではの育ち方をしました。お寿司を取ればわっと飛びつく、お弁当は良いものから順番に持っていってしまう、姉妹間の競争の激しい家庭でもありました。
そんな音無さんは小さい頃からテレビっ子。そしてそのテレビに映る側になりたいと考え、演劇ごっこなどで遊ぶ子供でもありました。中学を卒業するころには宝塚に入りたいと思う音無さんでしたが、結局その道に進むことはありませんでした。それは・・。
8月11日(火)「芸能界入りのきっかけ」
音無美紀子さんは高校生の時に劇団若草(わかくさ)に入ります。新聞で募集広告を見かけて応募して合格したのですが、その前にお母さんの知り合いの地井武男さんから、ここはいい劇団だという話を訊いていたのも若草を選んだ理由だそうです。
その後、音無さんはNHKの連続テレビ小説「おはなはん」でデビューします。もともと女学生の一人として出演することになったのですが、途中で抜擢されて歌を唄う事になります。何でも良いからと言われて音無さんはとんでもない唄を歌います。見事なリベンジでした。
8月12日(水)「旦那様との出会い」
21歳の時にTBSの連続テレビ小説「お登勢」で主役デビューをした音無美紀子さんでしたが、このとき、もう一つ出会いがありました。旦那様、村井国夫さんとの出会いです。もともとアングラの芝居で村井さんに注目していた音無さんはチャンスとばかりいろいろ話しかけたのだそうです。
村井国夫さんは遊び好き。でも、あまり気にしなかったと音無さんは話します。ですがやはり、これはちょっとなぁと思う事もあったのだそうです。そして、その解決策は意外な方法でした。
8月13日(木)「病気を乗り越えて」
38歳の時、音無美紀子さんは乳がんを見つけてしまいます。初めは小さなしこりだったものを放っておいたら手を上げると引きつるようになり、急いで病院に行ったそうです。見かけをよりも確実性を取って全摘出をした音無さんでしたが、これで気持ちが弱くなってしまいました。
気持ちを持ちなおそうと受けた仕事で声が出なくなり結局ドタキャン。リハビリのつもりでいたのに最悪の結果となってしまった音無さんは鬱を患ってしまいます。このとき支えになったのは旦那さんの村井さんからの優しい言葉でした。
8月14日(金)「これからの音無美紀子さん」
音無美紀子さんが大病を患った事で、旦那さんにも変化がありました。ちゃらんぽらんに生きていた自分が変わった、病気になってくれてありがとうと、村井国夫さんはテレビのインタビューで答えています。
音無さん自身も生きている事の意味を改めて知ることができたと話してくれました。東日本大震災の被災者の方を励ますために始めた「歌声喫茶」の発想もここから生まれたのだそうです。
そんな音無さんはこれからの目標を話してくれました。いろいろな役をこなしてきた音無さんが一つだけ関わっていないものがあるのだそうです。
<プロフィール>
演後、1971年、TBS『連続テレビ小説「お登勢」』に主演。以後、テレビドラマに数多く出演。主な出演作品は、日本テレビ『たんぽぽ』、フジテレビ『三億円事件』、TBS『マイリトルシェフ』、舞台『佐賀のがばい婆ちゃん』『女たちの忠臣蔵』、映画『寅次郎・紙風船』『その男凶暴につき』など。日本舞踊・藤間流の名取で時代劇や舞台でも活躍。