終わりよければ・・・(放送終了)

7月21日~7月24日の「サロンdeくにまる」のゲストは海老名香葉子さん

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7月21日(火)「東京大空襲の記憶」
竿師の家に生まれた海老名香葉子さんは泣き虫な女の子でした。空襲が激しくなったので沼津に疎開していましたが、東京大空襲で一番下のお兄さん以外、家族、親族のほとんどが行方不明になります。疎開先の沼津でも、東の方向の空が蛍光灯のように光っていたと話す香葉子さんです。
空襲を語り続ける香葉子ですが、体調が悪くて体が動かなくなった時に、お母さんが香葉子さんを助けてくれました。幻のお母さんは37歳のまま、とても不思議な体験をしたのだそうです。

7月22日(水)「落語の世界との出会い」
海老名香葉子さんは石川県の穴水に疎開し直しますが、終戦後親戚に呼ばれて東京に戻ります。でもこの親戚は親権が欲しかっただけのようですぐに邪魔者扱いを受けています。穴水の人は優しかったけど・・・と話す香葉子さんです。
焼け跡でその暮らしをしていた香葉子さんは偶然、(先代の)金馬師匠が出ている寄席を通りかかり、楽屋に会いに行きます。金馬師匠は香葉子さんに会えたことを喜び、その日のうちに、金馬師匠の家の子供として迎え入れられたのでした。

7月23日(木)「夫 三平さん」
海老名香葉子さんはお見合いをして結婚します。相手はまだ人気が出ていなかった三平さん。あの家はおかみさんが良いからと周囲が言う事、化けるかもしれないという師匠の言葉が香葉子さんを後押しをしました。
その三平さんは民放ラジオの放送が始まると急に仕事が増え人気者になります。最初の仕事は文化放送、1年で終わってしまったけれど写真も台本も残っていると香葉子さんは話してくれました。
お金が入るとすぐに遊びに行ってしまう三平さんで香葉子さんは苦労しますが、後に体を悪くした三平さんの為にも財産をすり減らす香葉子さんでした。そして三平さん亡き後には異例の一門が誕生したのでした。

7月24日(金)「海老名香葉子さんの御活動」
海老名香葉子さんのライフワークは戦争の悲惨さを語り続ける事。戦争で人が変わってしまう事が怖い、だから、実は戦後の方が大変だったと香葉子さんは話します。東京大空襲の日には、"時忘れじの集い"を開き、毎年戦争の悲惨さを伝える香葉子さんです。また三平さん、泰葉さんの二人のお子さんは特攻を伝える映画「桜花」(さくらばな)の制作に参加しています。
今、海老名香葉子さんが力を注いでいるのは、名古屋に落語の定席を作る事。9月に完成するので盛大に披露をしたいと、楽しそうに話してくれる82歳の香葉子さんでした。

<プロフィール>
生家は江戸時代から代々続いた釣竿師「竿忠」。
1945年の東京大空襲で家族6人を失い、戦後先代の三遊亭金馬師匠宅に引き取られて育つ。
1952年、林家三平氏と結婚。
1980年、夫・林家三平氏の死後、弟子のこん平氏を始め、30名の弟子を支える。
夫の死後はテレビのコメンテーターやコラム執筆などで活躍。