終わりよければ・・・(放送終了)

3月23日~3月27日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは谷道夫さん

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3月23日(月)「音楽との出会い」
宮崎で生まれた谷道夫さんは、最初はとてもひどい声、でも、変声期をすぎてきれいなバリトンボイスになったのだそうです。変声期中に無理しなかったのが良かったのかなと話してくれました。
戦時中は軍歌一色、しかも斉唱。終戦後、街頭放送で外国の音楽を聞いてショックを受けた谷さんは、先生のアドバイスもあり音楽の先生になろうと決心します。その先生と後に再会したときも、谷さんは温かい言葉をいただいたのだそうです。

3月24日(火)「デュークエイセス結成」
音楽の先生になるために宮崎大学へ進んだ谷さんですが、大好きな先生が東京の芸大に招かれたのを機会に、谷さんも宮崎大学を辞めて上京することにします。その東京ではダークダックスが大人気、好きなコーラスで飯が喰えるのではないかと思った谷さんは和田昭治さんら、友人を集めて4人のコーラスグループを作りました。
名前はデュークエイセス、この名前はデュークという爵位にエースの複数形、えりすぐられた公爵様という偉そうな名前だったと笑う谷さんです。でも、後にこれ以上の名前を見て仰天したのだそうです。その名前は・・・。

3月25日(水)「飛躍するデュークエイセス」
デュークエイセスは最初、米軍キャンプを廻っていました。出来が良いとほめられて、悪いとブーイング、実力がわかる世界でしたが、一番助かったのは譜面を見ることができたこと、これでまた歌に磨きが掛かったと谷さんは話します。
昭和36年にはNHKの「夢であいましょう」に出演します。ここでデュークエイセスはヒット曲「おさななじみ」を得て、人気は全国区になりました。
当時の地方回りには今との違いが一つだけありました。それは晩御飯の時間。今のビジネスホテルと違って皆が大広間で食事。今思えば、これが楽しかった話す谷さんでした。

3月26日(木)「デュークエイセスの歌」
デュークエイセスは日本中、47都道府県の歌を唄っています。名所旧跡の歌にならないように、旅人の視線になるようにと工夫をしだのだそうです。
また、たくさんのCMソングも唄っています。谷さんのお話では300曲以上。歌手名が出ないのをいい事に、ライバル会社のCMも無節操に引き受けていたと谷さんは笑います。
グループの中での対立は無かったのでしょうか?と、訊いてみると、無理をしてでも尊敬をする、悪いところは見ないで良い所をふくらましていくことでうまくいくと応えてくれました。
デュークエイセスは、こじんまり、あっけらかんに明るく唄うことを心がけていたと語る谷さんです。

3月27日(金)「唄い続けるデュークエイセス」
昨年、デュークエイセスはニューアルバムを出しました。そのなかの「生きるもののうた」には永六輔が語りをつけてくれました。デビュー以来お世話になっているので、永さんの方向に足を向けて寝ることはできないと話す谷さんです。
今、デュークのレパートリーは1700曲ぐらい。60周年になりましたが、病気などでメンバーは入れ替わり、どうしても顔ぶれは変わっていきますが、これは振り払っていくしかないと谷さんは話します。
谷さんの居ないデュークエイシスは?と聴くと、名前は残るかもしれない?けど、聴く人も年をとっていくから・・、とだけ話してくれた、谷道夫さんでした。

<プロフィール>
1955年結成のデュークエイセスのリーダー。
デュークエイセスは「にほんのうた」シリーズなどをレパートリーとしている他、ジャズコーラスグループとしても活動。その中で、レパートリー1500曲中、約半数を編曲する。