終わりよければ・・・(放送終了)

3月24日~3月28日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、華原朋美さん

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3月24日(月) 「乗馬で国体4位になった少女」
東京下町生まれの華原朋美さんは、男兄弟に囲まれたやはり男っぽい子供でした。
負けず嫌いで、目標ができるとそこまで頑張る子だったそうです。
子供の頃大きな病気をし、この病気には潮風が良いという事で家族は浦安に転居、そこで乗馬を覚えた華原さんは、なんと、高校時代には国体で4位になるほどになります。しかし華原さんは1位でないのが嫌で乗馬を辞めてしまい、友人と普通に遊ぶ高校生になります。
華原さんが吉野家でスカウトされたという話は本当だそうです。実際はその後何度も声を掛けられ、有名人になりたい!と思って、スカウトに応じたのだそうですが。最初はモデルを目指しますが、ぽっちゃり体型を直すためのサラダだけの生活に耐えられない華原さんは、「はい無理!」とダイエットをやめてしまいます。

3月25日(火) 「CDデビューし、大ブレイク」
減量が嫌でモデルを辞めた華原朋美さんはその後アイドルへの道を進むことになりました。水着グラビアやタレントとしての仕事などをしていましたが、それも結局辞めてしまいます。年齢を誤魔化すのが嫌だったのだそうです。
その後、小室哲哉さんと出会い、プライベートな付き合いもある中で、華原さんの唄を聴いた小室さんに認められ、CDデビューが決まります。この後は出す曲出す曲大ヒットした華原さんですが、ご本人は「景気が良かったのよ」と謙遜しています。いろいろあったけれど今は幸せ、小室さんあっての華原朋美だったと笑って話す華原朋美さんでした。

3月26日(水) 「大ヒットの陰での不安」
1996年のファーストアルバムは、300万枚を超える大ヒットとなりました。当時を振り返ることはありますか?と訊かれた華原さんは、大事な過去なので振り返ることもありますが、その頃の私は勘違いしていたと思うと答えてくれました。周りの大人がみんなやってくれていたからダメになっていく自分に気が付かず、その後、自分一人になった時にはどうしたらよいかわからなかったのだそうです。なぜ乗馬会見などやってしまったのだろうと、明るく笑いながら華原さんは話してくれました。
その後、「進ぬ!電波少年」の企画で7か月にわたりアメリカに渡りました。この仕事をうけるかどうかはとても迷ったのだそうです。周りに大人が居ないから全部自分でやらなければならず、大きく私を変えてくれたと華原さんは話してくれました。

3月27日(木) 「休養、そしてフィリピンでの生活」
休養中の華原朋美さんは、死にたいなぁと思うような不安の中、医者からもらった薬に頼る毎日でした。ずっと寝ていてお腹も空かない。歌が歌いたいという気持ちだけは変わらなかったけれど、そう思ったらまた薬を飲んで寝てしまう日々だったと、当時を振り返って華原さんは話してくれました。でも、そんな毎日でも少しずつ成長することはできると華原さんは言います。これを飲んだら逃げることになるんだろうなぁと考える自分がそこには居たのだそうです。
兄たちの手で病院に運ばれたのち、お父さんの居るフィリピンでの生活で華原さんは回復していきます。歩くのもしんどかったところから、だんだん明るくなり、ボランティアをするようにもなりました。生まれてよかったと初めて思えるようになったのも、そしてまた復帰したいと思ったのもこの頃だったそうです。
 
3月28日(金) 「華原朋美さんの近況」
初めてのカバーアルバムを華原朋美さんは発表しました。これは自分の青春時代の思い出の曲をカバーしたもので、華原さんは楽しそうに選曲のエピソードを話してくれました。
ちなみにグローブの楽曲「DEPARTURE」を唄うに当たっては、16年ぶりに再会した小室哲哉さんに直接了解をもらったのだそうです。そんな華原さんが今一番したいことは結婚!そして出産だそうです。まだ相手もいないけれど・・・・、噂の彼とはお付き合いまで至っていないので・・・・と、笑いながら話す華原さんです。ちなみに華原さんの理想の彼はなんと「失敗の多い人」自分も失敗が多いので、それをわかってくれる人がいいのだそうです。


<華原朋美>
1995年「keep yourself alive」でデビュー。以後「I BELIVE」「I'm proud」等ヒット曲をリリース。
歌手活動以外にもCM・ドラマ・バラエティー等で活躍するも2007年活動休止。
そして2012年12月、5年ぶりに芸能活動を再開。
今春、7年ぶりの新曲、ミュージカル「レ・ミゼラブル」の劇中歌「夢やぶれて- I DREAMED A DREAM -」を日本語訳カバーしリリース予定。