終わりよければ・・・(放送終了)

『ジャズ界最大のカリスマ チャーリー・パーカー』

『音楽マスターピース』では、ジャズ評論家の青木和富さんに

出演していただきました。

 

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毎回、何らかのテーマに沿ってジャズの名盤をご紹介頂いている青木和富さんに、

今回は、"ジャズ界最大のカリスマ"とされる『チャーリー・パーカー』についてお話し

いただきました。

 

チャーリー・パーカーは1920年、アメリカのカンザス・シティの出身。当時のカンザス

・シティはゴスペル・ミュージックをはじめ、様々な音楽が溢れており、そんな環境の

中でパーカーは幼少期を過ごします。そして、1933年にパーカーは学校のスクール

バンドでアルト・サックスを手にとると、学校を卒業してプロのミュージシャンになる前

からすでにセミプロとして活動を開始しました。

 

1938年には、カンザス・シティの最も重要なミュージシャンの一人ジェイ・マクシャン

のバンドに加入し、シカゴやニューヨークをツアーで回ることになり、ニューヨークで

「ハーラン・レオナードのロケッツ」に参加した後、パーカーはカンザス・シティに戻り、

再びジェイ・マクシャンのバンドに参加、1942年までここに留まることになります。

 

1942年、マクシャン・バンドを辞めたパーカーは earl Hinesのバンドに一時期在籍

するなどした後、1945年に自身のグループを率いてジャズ・シーンの中心に登場。

当時、弱冠24歳だったパーカーは、スリルとスピード、そして、オリジナリティ、モダ

ナイズされたブルース・フィーリングと、既に時代の先端を行くトップランナーでした。

 

そして、1947年にニューヨークに戻ったパーカーは、新しいグループを結成します。

これがMiles Davis(tp)Duke Jordan(p)Tommy Potter(b)Max Roach(ds)を従えた

「チャーリー・パーカー・クインテット」です。また、パーカーには敏腕のマネージャー、

ビリー・ショウが付き、ビジネス的にも大きな成功を収めつつありました。1951年まで

のこの時期こそ、ある意味でのパーカーの最も安定したプレイが聴かれる時期で、

様々なフォーマット、"ウィズ・ストリングスもの"に至るまでアルト・サックスで出来る

こと全てをパーカーが成し遂げた時代といってもおかしくないほどです。

 

しかし、1951年、麻薬禍によってニューヨーク州のキャバレー・カードを取り上げられ、

マンハッタンのクラブへの出演が不可能となったパーカーは、その後1954年に二度

にわたる自殺未遂をしました。そして、1955年3月5日の名門クラブ「バード・ランド」

への出演を最後に、その1週間後の3月12日に34歳の若さでこの世を去ります。 

 

ジャズの100年に渡る歴史の中で、実働20年しかも34歳で亡くなったにも関わらず、

パーカーが残した偉業は語り尽くすことができない程で、今なお多くのアーティストが

彼の影響を受けています。

 

今回は、そんなチャーリー・パーカーが残した曲のほか、パーカーの影響を受けた

一人である、ローリング・ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツの演奏する曲を

ご紹介いただきました。

 

 

今日、ご紹介いただいた音楽は・・・

1.ディジー・アトモスフィア / チャーリー・パーカー

2.オーニソロジー / チャーリー・パーカー

3.チェイシング・ザ・バード / チャーリー・パーカー

4.リラキシン・アット・カマリロ / チャーリー・ワッツ

以上の4曲でした。