3月10日(月)「バレエ少女が宝塚の道へ」
群馬県生まれの紫吹淳さんは、運動靴を履かず、ランドセルも使わない、ちょっとおめかしした女の子として小学生時代を過ごしました。中学に上がった直後にはこれが原因で上級生のいじめに遭いますが、この時はお父さんが相手の家に乗り込んで行ってくれて一件落着となったそうです。小さいころ、すぐに転んでしまうような紫吹さんに、お母さんはモダンバレエ教室に通わせます。トゥシューズが気に入った紫吹さんは喜んでバレエを習いますが、中学1年の白雪姫の時、王子様より大きな自分に気が付いてバレエを続ける気持ちを失ってしまいます。でも、もともとバレエが大好きだった紫吹さんは中学三年の時、その教室に戻ったのでした。すると先生が、身長が高くても大丈夫な「宝塚」という道を教えてくれ、紫吹さんの宝塚人生が始まったのでした。
3月11日(火) 「宝塚音楽学校時代」
紫吹淳さんは宝塚を受験し合格します。東京で試験があることを知らずに1次から宝塚に行き、2次までの間は一人でホテル暮らし。周りが美しい装いの中、一人だけセーラー服にポニーテールといういでたちで、いろいろとちょっとずれていた、でもこれが合格理由だったのかもと紫吹さんは笑います。なんと、宝塚を初めて観たのもこの時でした。思い違いもあり、知らず知らずのうちに紫吹さんは男役として勉強をすることになります。その頃は宝塚に興味は持てなかった、でも、やめようとも思わなかったと紫吹さんは当時を回想してくれました。
3月12日(水) 「宝塚歌劇団トップスター」
紫吹淳さんが最初に自分が男役だと気が付いたのは歌劇団2年目の新人公演の事、歩きながら(男として)セリフを言う場面でロボットのようにぎくしゃくしてしまった時なのだそうです。そして4年目、音楽学校から数えて6年目に、新人公演とはいえ、初めて主要人物の役をもらいました。この時にお芝居っておもしろい!もっとうまくなりたいと初めて思ったそうです。紫吹さんは宝塚の中でも変わった人として、いじめられた事もあったそうです。その後宝塚のトップになりますが、いじめられたから悔しくてトップになろうと思ったと、今は笑って話す紫吹淳さんでした。
3月13日(木)「宝塚退団後の紫吹淳さん」
宝塚に居る間、紫吹さんがいつも思っていた事、それは「なんで女の一番良い時期に男の格好をしなければいけないのだろう」という事でした。でも、結局紫吹さんは宝塚に18年居ました。宝塚の男役は退団すると女優になる人が多い中で、紫吹さんは男役も女役もこなす俳優さんになりました。ご本人曰く「女優という枠がひとつ増えただけ」なのだそうです。でも、一番芸能界に入ってから一番迷ったのも男と女を演じ分けることでした。デビュー25周年の公演で両方を演じてファンの皆さんに喜んでもらったことで、両方やろうという踏ん切りがつき、やっと吹っ切れたのだそうです。そして紫吹さんは面白い話をしてくれました。どちらを演じるかで体つきも変わってくるというのです。
3月14日(金) 「これからの紫吹淳さん」
ずっと紫吹さんは独身です。その訳を尋ねたら、「ずっと自分が理想の男性を演じてきたら、条件が高くなってしまった」と、話してくれました。今は少し条件が低くなったけれど、やっぱり三高が良い!そうしたら無条件に尊敬できるからと、紫吹さんは笑いながら話します。ちなみに占いでは今年中に結婚するのだそうです。「今年中に結婚できれば占いを信じる、そうでなければ一生占いは信じない」本気か冗談かわからない紫吹さんの話です。
4月、7月にミュージカル舞台を控えている紫吹さんですが、これからの目標を伺ったところ、やはり「結婚」という言葉が返ってきました。人生は長いようで短い、そして老後は一人で過ごすのはさびしいからそれまでに・・・・と話してくれた紫吹淳さんでした。
<紫吹淳>
元宝塚歌劇団月組トップスター。1986年、『レビュー交響楽』で宝塚初舞台を踏み、1992年『スパルタカス』新人公演で初の主演。その後、数々の作品で主役に抜擢され、2001年トップに抜擢。2004年3月宝塚歌劇団退団後、オスカープロモーションに所属。同年4月、「女優宣言お披露目記者会見」を行い、女優としてデビューを果たす。主な出演作品に、舞台『ホテルマジェスティック~戦場カメラマン澤田教一 その人生と愛~』、ミュージカル『9時から5時まで』、テレビ朝日『ナサケの女~国税局査察官』、コンサート『紫吹 淳 ソロコンサート』などがある。