11月11日(月) 「ものまねで目覚めて」
自衛官のお父さん、公務員のお母さんの間に生まれた温水洋一さんは、本当に引っ込み思案な子供でした。漫画を描き、9時に寝る、インドアな生活を繰り返していた温水さん、唯一やっていたのは剣道でしたが、これは親に無理矢理通わされたものでした。そんな温水さんが変わるきっかけは、声が似ていることを友人に指摘されてやった学年主任のものまねです。気が付けば他のクラスから見に来るほどにものまねはうまくなり、皆を楽しませることの面白さを温水さんは知ったのでした。
11月12日(火) 「演劇をすすめてくれた女の子」
温水さんの次の転機は高三の春でした。美術部に居た好きな女の子に隣りの演劇部で男子が足りなくて困っていると聞いた温水さんは、一緒に帰りたいと言う下心で演劇部に入部したのです。その頃、人前に出ることが好きになっていた温水さんは、高校を卒業する頃にはもう演劇のとりこになっていました。プロになることは考えなかったけれど、ずっと続けていたいとその頃の心境をはなしてくれました。
ちなみにその彼女とのお付き合いは・・・・当時はうまくいかなかったのだそうです。
11月13日(水) 「演劇に魅せられてからの学生生活」
演劇のできる大学を目指して受験をした温水洋一さんは、結局二年間予備校生活をすることになります。フジテレビ前で親戚が中華料理店を営んでいたために、たまたまテレビの収録風景を見た温水さんは、目指す世界が意外と身近にあることを知ります。結局、温水さんは愛知の大学に進みそこで演劇部に入ります。ここはまじめな演劇部で、いろいろな基礎を学ぶことができたのだそうです。
でも、東京の演劇にも未練があった温水さんは休みになると夜行バスで東京に通う生活をしていました。そこで、大人計画との運命の出会いがあったのでした。
11月14日(木) 「バラエティの世界へ進出」
温水洋一さんが入った大人計画はどんどんメジャーになっていき、大きな劇場で公演をするようになります。温水さんもテレビなどにチョイ役で出るようになってきました。東映のVシネマ、痴漢日記シリーズの演技が評価されたのもこの頃です。そんな中で温水さんは、さんまさんに出会います。劇で共演した後、さんまさんは温水さんをバラエティ番組にひっぱってくれ、今の温水さん人気が始まったのでした。
温水さんはバラエティでも気が抜けないと言います。ひな壇に居て、コメントを求められそうな時には、いつもわきの下にたくさんの汗をかいているのだそうです。
11月15日(金) 「温水洋一伝説を検証」
酔っ払ってしまうと電話魔になってしまうとか、駅のホームで女子高生に囲まれたのを痴漢と間違えられたとか、温水さんにはいろいろと伝説があります。売れてからも人見知りなところは残っていて、温水さんはサインなどが苦手なのだそうです。ちょっとはなれたところから見ている奥さんには、良く、ファンを大切に!と怒られている温水さんです。そんな温水さんは「これ、温水さんじゃないとできない役だね」と言われる俳優になりたいのだそうです。年によって仕事の方向性に波がある温水さんですが、楽しく仕事を続けられれば良いと話してくれました。
<温水洋一>
"劇団大人計画出身(1988~1994年まで在籍)。その後、遊園地再生事業団、村松利史プロデュース、竹中直人の会などに出演。1998年、新たなる活動の拠点として現在の事務所オフィスワン・ツゥ・スリーをイラストレーター安齋肇、俳優の村松利史らと設立、所属。映画では、竹中直人監督『119』、平山秀幸監督『愛を乞う人』、ダンカン監督『七人の弔』などに出演。2006年、三木聡監督『ダメジン』では出演だけでなく企画から参加もした。TVドラマでも、日本テレビ『ギャルサー』、フジテレビ『山おんな壁おんな』『ロス:タイム:ライフ』など、レギュラー多数。また、舞台では明石家さんま主演『七人ぐらいの兵士』や『奇人たちの晩餐会』、三谷幸喜氏作・演出『オケピ!』『12人の優しい日本人』などに出演する一方、大堀こういち氏とのユニット""O.Nアベックホームラン""の活動も著しい。舞台・映画・ドラマと幅広く、神出鬼没の個性派怪優として活躍。"