終わりよければ・・・(放送終了)

11月4日~11月8日の「ラジオバイオグラフィ 5冊のアルバム」のゲストは、野村克也さん

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11月4日(月)「歌手になりたかった少年時代」
幼いころに父を亡くし、母親が女手一つで育ててくれたと振り返る野村さん。母親が病気で近所の人たちに、もうだめらしいと噂されて、兄と二人で落ち込んだ日もあったそうです。母親がかえってきてからは、金持ちになりたい!と決心。中学1年の時に歌手を目指して活動を開始しますが、鏡を見ると...。野村少年の決心が揺らぎます。

11月5日(火) 「プロ野球へ入るきっかけ」
高校時代野球をやっていたが、3年間で甲子園の京都府予選で勝ったのは1回だけ。新聞配達をしていたら、スポーツ新聞に南海ホークスが新人を募集するという記事が載っていました。先生に相談してテストを受けることに。お金がなかったので先生に旅費を貸してもらいました。テストで一番苦手なのは遠投。その時に二軍の選手が野村さんにあることをささやきます。そして南海ホークスに入団したのでした。

11月6日(水)「ささやき戦術と それが全く効かない人」
野村克也さんの代名詞といえばささやき戦術。もともとは野村さん自身がささやかれたのが始まりだったそうです。結構成果はあったようですが、どんなにささやいても効果がなかった二人の選手の名前をあげています。野村さんの名セリフ「月見草」のエピソードも紹介してくれました。

11月7日(木) 「ヤクルトはどうやって強くなっていったのか」
ある日、ヤクルトの球団社長の訪問を受けた野村さん。監督要請に驚いたそうです。
監督になってからは「アンチ巨人」でマスコミを使って巨人に対するコメントを連発。これは盛り上がるための作戦だったのだが、巨人の長嶋さんはそれ以来疎遠になってしまったそうです。愛弟子、古田選手への教えについても語ってくださいました。

11月8日(金) 「私の教え子ベストナイン」
楽天の監督を離れてからまだ年月がたっていませんが、スタメンのオーダーがだいぶ変わってしまった。入れ替わりが激しい世界だなとしみじみ思うそうです。田中将大選手については、ストレートよりスライダーを評価したのだそうです。ヤクルトの伊藤智仁選手についても語ってくださいました。これからしたいこと。おいしい店を探してうまいものを食べる。日本食、中華、イタリアンなど各部門5~6軒を確保してローテーションで回っているそうです。

<野村克也>
京都府立峰山高校を卒業し、1954年にテスト生として南海ホークスに入団。3年目の1956年からレギュラーに定着すると、現役27年間にわたり球界を代表する捕手として活躍。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王などその強打で数々の記録を打ち立て、 不動の正捕手として南海の黄金時代を支えた。
70年の南海でのプレイングマネージャー就任以降、延べ四球団で監督を歴任。 他球団で挫折した選手を見事に立ち直らせ、チームの中心選手に育て上げる手腕は、「野村再生工場」と呼ばれ、 ヤクルトでは「ID野球」で黄金期を築き、楽天では球団初のクライマックスシリーズ出場を果たすなど輝かしい功績を残した。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督であり、野球解説者としても活躍。