終わりよければ・・・(放送終了)

7月29日~8月2日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、有馬稲子さん

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7月29日(月) 「子供の頃の話」
1932年に大阪で生まれた有馬稲子さんは4歳のときに釜山(ぷさん)に住む親戚に引き取られます。そこは裕福な家庭でしたが、養父が亡くなり、戦争が激しくなると有馬さんの生活は激変しました。ほうほうの体で慰問先の満州から戻ってきた養母と日本に帰り、実の両親のところに住んだ有馬さんでしたが、そこは14、5人の大所帯、そして気性の荒い父の元、有馬さんにとってここは休まる場所ではありませんでした。そこで有馬さんは、この家から逃げ出すために、宝塚を受験することを決意します。

7月30日(火) 「宝塚時代の活躍」
宝塚音楽学校受験の話が学校中に広がり、意地でも合格するしかないと思っていた有馬稲子さんは無事、宝塚に合格します。入学式に向かう電車の中で、実は母も宝塚出身だったと言うことを知って有馬さんは驚きました。当時、4人の二世が入学し、学校の方針で有馬さんは母の名前を継ぐ事になりました。有馬稲子は、実は二代目だったのです。宝塚に受かった有馬稲子さんは、レッスンに精を出します。他の人より覚えは遅い代わりに、覚えたら寸分たがわず同じ演技ができたのだそうです。 有馬さんは自分が男役を演じるのは嫌いでした。そして、宝塚には一つだけ馴染めないものがあったそうです。この癖が付く前に宝塚を辞めようと、有馬さんは考えていました。
                       
7月31日(水) 「映画女優としての活躍」
活躍の舞台を映画の東宝に移した有馬稲子さんですが、思わぬ世間の風を感じるようになります。組で演じる宝塚と違って、映画の世界は一人、自分自身が直接批判にさらされたのです。撮影現場でもいろいろなことがありました。殴打されるシーンで、練習でも本気で殴られ、最後の本番で頭が真っ白になってしまったこともあれば、「待って」という一言を撮る為に1週間掛かったこともありました。この頃、有馬さんは道ならぬ恋にはまり、7年にわたって辛い思いをしてきました。しかし中村錦之助さんとの出会いが有馬さんを変えたのです。
 
8月1日(木)「舞台女優としての活躍」
 中村錦之助さんと結婚した有馬稲子さんは主婦として頑張りますが、結局、力尽きてしまい離婚してしまいます。でも子供は欲しかったと有馬さんは話してくれました。
離婚後女優に復帰した有馬さんは、こんどは活躍の場が舞台に移りました。そうした中有馬さんは宇野重吉さんの劇団民藝に参加します。民藝での毎日はとても勉強になったのだそうです。
 1980年に、ライフワークとなる舞台、「はなれ瞽女(こぜ)おりん」と出会います。
 その後24年間の公演回数は684回、何回演じても泣ける、とても良い話だそうです。でも一つだけ残念なことがあると、有馬さんは話してくれました。
                         
8月2日(金)「朗読の活動/今後について」
今のライフワークは朗読、瀬戸内寂聴さんの源氏物語の朗読を10年ほど前にやったのがきっかけでした。
有馬稲子さんは今、ついのすみかとしてマンションに住んでいます。殺風景な庭があったので有志の方々と一緒にここに花を植えて、「モネコガーデン」と名づけたのだそうです。ずっと広い家に住んでいた有馬さんですが、今は住民同士の交流も盛んな、このマンションの生活がとてもお気に入りです。
 有馬さんは、これからも朗読を続けていきたいと話してくれました。まだまだレパートリーを広げていきたいのだそうです。

<有馬稲子>
大阪府池田市生まれ。幼年時代を釜山で過ごす。戦後引き揚げ。1948年宝塚歌劇団入団。53年映画界に転身し、小津安二郎監督『東京暮色』、今井正監督『夜の鼓』、内田吐夢監督『浪花の恋の物語』など日本映画黄金時代の名作に出演、出演総数は70数本を数える。やがて舞台に情熱を傾け、東宝の『奇跡の人』や『風と共に去りぬ』に出演。宇野重吉の劇団民藝に参加。80年ライフワークとなる『はなれ瞽女おりん』と出会い、684回の旅公演を重ねた。