終わりよければ・・・(放送終了)

10月29日~11月2日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、加瀬邦彦さん

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10月29日 月曜日
木材輸入店で育った加瀬さん。家ではよく洋楽が流れていたそうです。父母姉がピアノが弾けるのに自分だけ弾けない。ピアノ教師が来ていたがやることといえばレッスンではなくてプロレスごっこ。自由奔放な加瀬少年がある日、高校の帰りに湘南電車で藤沢から乗ってくるかわいい子に遭遇。その後ドラマのような展開でその女性と再会。彼女はなんと加山雄三さんの妹でした。

10月30日 火曜日
加山雄三さんの妹とお付き合いをしながらも、加山雄三さんと仲良くなり、ギターを教えてもらう。大学生になって学生バンドを組むことに。そのころホリプロの社長と出会うチャンスがあり、とんとん拍子でプロデビュー。そのバンドにかまやつひろしさんがいた。バンド解散後、翌日からスパイダースにかまやつさんと移籍。3ヵ月後には寺内タケシさんのバンドに加入。ところが、ビートルズ日本公演の前座に決まったのに脱退してしまう。理由はビートルズが見たいから。やめたあと、後ろめたさからバンドを組んだ。それがワイルドワンズだったのです。

10月31日 水曜日
バンドを辞めて働いていないのにプロダクションから給料をもらっていた加瀬さん。
これじゃ申し訳ないということでフィーリングが合う人たちを集めてワイルドワンズを結成。合宿をしたがあまりの下手さに愕然。その後葉山マリーナで演奏しているうちに形になってきました。2ヵ月後にはレコーディング。それが「想いでの渚」ジャケット写真が気に入らなかったから変えてくれと頼んだら「10万枚売れたら変えてやる」といわれた。本当に10万枚売れて、写真が換わることになった。でも本当はこの曲はB面候補だったのです。

11月1日 木曜日
ワイルドワンズを1971年に一度解散。その後、作曲を依頼されたのがきっかけで沢田研二のプロデュースをすることに。カサブランカ・ダンディーやTOKIOなど大ヒットを連発。落下傘や化粧、衣装などで大衆の度肝を抜きました。今までにない歌謡シンガーにしたかったと加瀬さん。楽しさもあったが次のジュリーはどうなる?という生みの苦しみもかなりあった。TOKIOのシングルカットはスタッフに反対されたが強引に押し切った。落下傘は巨大扇風機で広げていたためジュリーはその風に耐えながら歌っていた。

11月2日 金曜日
まさかのワイルドワンズ再結成があり、新曲もリリース。
その後、ケネディーハウスというライブハウスを作ります。ワイルドワンズは月に一度
そこでライブをやり始めました。それが今もバンドが続いている原動力なのかもしれないと加瀬さん。加山雄三さんも毎月ノーギャラで出演。53歳のとき食道がんが見つかる。その後、メンバー全員ががんを経験する。全員ががんの経験者でこれだけ長いことバンドやっているのは自分たちだけではないかと思っている。最近ではももクロと競演。ステージで熱いパフォーマンスを見せて話題になりました。これからも新しいことに挑戦しながら車椅子になってもワイルドワンズはやり続けたいそうです。

<加瀬邦彦>
1963年に「スパイダース」加入(約3ヶ月間在籍)、その後1966年まで「寺内たけしとブルージーンズ」に参加し、この年の7月に「ザ・ワイルドワンズ」を結成。
12弦ギターは、ワンズサウンドの要となる。
解散後は、作曲家、沢田研二プロデューサーとして活躍。
現在、銀座のライブハウス(ケネディハウス)のオーナー、「加山雄三&ハイパーランチャーズ」のプロデューサー。
60年代ミュージックシーンのバイブルともいえる自伝「ビートルズのおかげです」を著すなど多方面で活躍中。