終わりよければ・・・(放送終了)

7月16日~7月20日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、お笑い芸人のサンドウィッチマンさん

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7月16日(月) 「ラグビー部での出会い」
サンドウィッチマンのお二人は転勤族の家庭に生まれ、何度かの引越しの後に仙台にやってきました。少年時代の富澤さんは粘土で人形を作って、これで4コマ漫画を作ったり、ファミコンの画面を録画して解説アナウンスをしたりといった、ちょっと変わったことをするのが趣味でした。一方伊達さんはリトルリーグの野球少年。家は厳しく、テレビのお笑い番組どころかバラエティ番組も見せてもらえませんでした。この二人は仙台の高校のラグビー部で出会います。偶然の重なった、ちょっと運命のいたずらを感じるような出会いでした。

7月17日(火)「お笑いコンビ結成」
高校を卒業した富澤さんは、今で言うフリーターの様な生活をしていました。一方伊達さんは専門学校を中退した後、福祉関係の会社に就職し、忙しいながらも充実した生活をしていました。
そんな中で富澤さんは他の人と組んで仙台で漫才コンビの活動を始めていました。
伊達さんはこの二人はこの道に行ってしまうんだなと思いながら、このステージを客席から見ていたのだそうです。
富澤さんに漫才に誘われても断り続けていた伊達さんですが、おじいさんが亡くなった時、ちょっと考えが変わります。20代なのだから、冒険しても良いのでは?とかんがえたのだそうです。
仙台には劇場が無くなっていたので、東京に出た二人はプロダクションも決まり、東京での生活が始まりますが、1ヶ月で仙台に戻ってしまったのだそうです。
周りからいろいろ言われて、何が面白いのかわからなくなってしまってきた為でしたが、そこにはもう一つ、意外な理由もありました。

7月18日(水) 「東京でのうまくいかない日々」
 1ヶ月で仙台に戻ったのはあまりにも負けた感じだと気がついた二人は、3ヵ月後にまた東京に戻ります。
もう一人加わり、三人になったところで、3という数字にちなんだサンドウィッチマンという芸名に変えて活動を再開しました。
その後、また二人に戻ったサンドウィッチマンはライブではとてもウケていました。
しかし、念願のテレビ出演にはたどり着けません。
しかし、最後の1年と覚悟してライブの回数を増やして活動していたとき、浅草の舞台を見ていたエンタの神様からオファーが入り、やっと二人はテレビ出演を果たします。
サンドウィッチマンの二人が一番嬉しかったこと、それは、番組が全国ネットで故郷の友人に見てもらえることでした。

7月19日(木) 「M-1グランプリでの優勝」
2007年のM-1グランプリで、サンドウィッチマンのお二人は優勝します。
敗者復活戦の会場から直接スタジオに飛び込み優勝、あまりに展開が急で、番組を見ている訳では無い事もあり、これが現実だとはなかなか信じられなかったのだそうです。
この後、急激に仕事が増えます。経済的に楽になったので引越しをしようとしますが、それは半年後、それまで休みが取れなかったのだそうです。その頃にはその部屋に、ごきぶり以外にもある生き物が居ついていました。

7月20日(金) 「東日本大震災を経て」
サンドウィッチマンのお二人は、テレビ番組のロケの最中に東日本大震災に遭いました。
高台から、8mの津波が町を飲み込む様子を目の当たりにされたのだそうです。
そしてお二人はなにかをしなくてはという気持ちから義援金基金「東北魂」を立ち上げました。
多くの方からの暖かい支援をいただけていることに本当に感謝しているとお二人は話してくれました。
サンドウィッチマンの御二人の今後の目標は、ずっと単独でライブを出来る芸人だそうです。
そして、いつも声を掛けてもらえる芸人で居たいと話してくれました。

<サンドウィッチマン(伊達みきお、富澤たけし)>
1998年、コンビ結成。4239組のお笑い芸人たちがエントリーした2007年の「M-1グランプリ」で、史上初、唯一の敗者復活戦からの劇的な逆転優勝、グランプリの栄冠を手にして全国区の知名度を獲得する。2009年には「キングオブコント」で準優勝を果たした。