終わりよければ・・・(放送終了)

3月19日~3月23日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、ミッキー・カーチスさん

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3月19日(月)  「引っ込み思案だった少年時代」
赤坂生まれのミッキー・カーチスさんは、上海の疎開生活を経て東京へ帰ってきました。
ハーフ故にいじめられていたミッキーさんでしたが、明るいお母さんの影響でだんだん変っていきます。中学時代、意味のあることをやるのなら学校をサボっても良いという教育の元、ミッキーさんは映画館、寄席に通い続けます。
そんな中、体が弱くて性格的にも暗かったミッキーさんに、お母さんはウクレレを勧めます。これがミッキーさんと音楽の出会いでした。

3月20日(火)  「プロミュージシャンの道へ」
ミッキー・カーチスさんが始めてプロとしてステージに立ったのは、中学3年の時、なんと大学生バンドのメンバーとしてでした。芸能界に進もうと思ったミッキーさんに親は大学受験を勧め、合格しますが、大学はすぐにやめてしまいます。ロカビリー、ジャズ喫茶の大ブームで、ミッキーさんは人気者になりました。でも、ロカビリーのコンサート会場で観客が歌を全然聞いていないことに気が付いたミッキーさんは、落語の小噺をすることを思い立ちます。これが大成功、そして、その観客席には意外な人物が居て、「寄席でなくても落語ができるんだ!」と、その人は思ったのだそうです。

3月21日(水)  「ロカビリーから様々な分野へ進出」
ミッキー・カーチスさんの人気ぶりはすごく、ヒットパレードなどテレビ7本、ラジオ12本を持っていたときもありました。でも、それだけ忙しくてもメンバーは遊びに行くし、ミッキーさんは寄席に行っていたのだそうです。そんなミッキーさんは映画「結婚のすべて」で岡本喜八監督の映画に初出演します。早起きが嫌いで役者を避けていたミッキーさんでしたが、この時はお母さんからの「80になっても役者は出来る」という一言で踏ん切りがついたのだそうです。
 その後、レーサーとして活動し、更にバンド「サムライ」を結成してヨーロッパを廻りました。日本人バンド初のヨーロッパツアーです。

3月22日(木)  「プロデューサー業・落語家」
 ミッキー・カーチスさんは音楽プロデューサーとしても活躍しています。ガロに続いてキャロルを見出した時は、生放送中のスタジオに電話を入れてスカウトし、翌日午後にはもうレコーディングをしていました。バンドのノリが色っぽかったのだそうです。また、ミッキーさんはミッキー亭カーチス という落語立川流の落語家でもあります。談志さんとの偶然の出会いから40年後に弟子になったミッキーさんは、亡くなられた今でも師匠は談志さんだけだといいます。

3月23日(金)  「おれと戦争と音楽と」
ミッキー・カーチスさんは五十嵐信次郎の芸名で、今年1月に公開された映画ロボジーの主演をしました。この芸名、ミッキーさんがずっと憧れていた漢字の名前だったのだそうです。ミッキーさんは4年前に33歳歳下の女性と結婚していますが、この時、歳の差は全くきにしていなかったのだそうです。これは「ナンパ」だったとミッキーさんは笑っています。そんなミッキーさんが1月に本を出しました。「おれと戦争と音楽と」。戦争、そして戦後の裏面史を記録したようなミッキーさんの自伝ですが、同時に、移り行く音楽、そして時代背景を記録した本になっているのだそうです。


<ミッキー・カーチス>
1938年東京生まれ。58年日劇ウエスタンカーニバルでデビュー、ロカビリー3人男として爆発的なブームを呼ぶ。同年、岡本喜八監督の「結婚のすべて」で俳優としてもデビュー。近年では96年「KAMIKAZE TAXY」で第69回キネマ旬報助演男優賞受賞。これまでに約130本の映画に出演。68年ハードロックバンド「サムライ」を結成し、ヨーロッパを拠点に70年まで活動。その後、音楽プロデューサーとしてガロやキャロルなどを発掘したことでも知られる。また、98年には「ミッキー亭・カーチス」として落語立川一門の真打ちに昇進。現在も高座に上がっている。TV、映画、コンサートと幅広く活躍中。