2月20日 月曜日 「陸上をはじめたきっかけ」
邦丸さんと同級生、1956年生まれの瀬古さん。中学時代は、意外にも野球部でした。陸上部から助っ人を頼まれて大会に出たら何の練習もしてないのに優勝。そこで地元の三重県内の陸上強豪校・四日市工業高校に進み、本格的に陸上を始めます。でも、瀬古さん、実は5歳の時に、自分は走るのが誰よりも速い、と気がついていたそうです。そのエピソードとは・・・?
2月21日 火曜日 「恩師・中村監督との出会い」
1浪の末に入学した早稲田大学で、瀬古さんは名伯楽・中村清監督と運命の出会いを果たします。考え方、食事といった生活スタイルまで、全て陸上に結びつける監督の独特の指導法で鍛えられました。監督の「お前はマラソンをやれば世界一になれる」の一言で、瀬古さんは中距離からマラソンへと転向します。
2月22日 水曜日 「ロサンゼルスオリンピック」
中村監督の指導を受けて連戦連勝、瀬古さんは世界のトップランナーになります。選手としてピークを迎えた時期に、まさかのモスクワ五輪ボイコット。がっかりした瀬古さんですが、それから4年後、国内の異様な期待を受け「金メダル本命」とされて臨んだロサンゼルス五輪。今日は、オリンピック当時の裏話を伺っています。
2月23日 木曜日 「ソウルオリンピック、そして引退」
ロス五輪の翌年、瀬古さんの恩師・中村監督が不慮の事故死を遂げます。大変なショックを受けながらも、監督の「絶対に練習を休むな。親の葬式にも出るな」の教え通り、この日も練習を休まなかったそうです。そして引退をかけソウル五輪に出場。結果は9位。家に帰ると、奥さんと息子さんが厚紙で作った金メダルをプレゼントしてくれたそうです。
2月24日 金曜日 「現在の活動」
引退後、スビー食品陸上部の監督になった瀬古さん。最初は中村清監督の教え方をそのまま真似して指導していましたが、なかなかうまくいかなかったそうです。そして現在の瀬古さんといえばなんといっても箱根駅伝での、早稲田寄りの迷(?)解説。東洋大学の柏原選手など、駅伝で活躍した強い選手が、早くからマラソンを始めて日本のマラソン界を支えて欲しいという瀬古さん。今月発売になった著書「すべてのマラソンランナーに伝えたいこと」にもマラソンに対する思いが綴られています。
<瀬古利彦>
1956年7月15日、三重県生まれ。野球部に所属していた中学時代、三重県中学春季陸上2000mで優勝。四日市工業高校に進学してから本格的に陸上を始める。インターハイには高1から出場して800mで3位に。高2、高3で800m、1500mの2種目で2連覇する。一浪後、早稲田大学へ。中村清監督の下、マラソンを始める。早稲田大学教育学部卒業後、エスビー食品株式会社に入社。福岡、東京、びわ湖、ボストン、ロンドン、シカゴといったビッグレースで優勝。3000m(7分54秒9)、5000m(13分24秒29)、1万m(27分42秒17)、マラソン(2時間08分27秒)で日本記録(日本最高)をマークした。現在はエスビー食品スポーツ推進局局長。