今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、海老一染之助さん!
1月31日 月曜日 「兄の弟子入り」
お父さんは落語家の三遊亭圓駒。終戦後、落語では一家が食べていけないので、兄は太神楽の海老一海老蔵師匠のところに弟子入りし、染之助さんは荷物持ちとして兄についていきました。すぐに覚えてしまう器用なお兄さんの横で、いろいろ練習しているうちに染之助さんも仏のような師匠の元で太神楽をやるようになります。でも、染之助さんはお兄さんの5倍の練習量が必要でした。後々、これが役に立つのですが...。
2月1日 火曜日 「初舞台」
猛練習を積んだ染之助さん、なんと、はじめて1年で初舞台を踏みました。そして進駐軍の慰問にも。進駐軍からもらう御祝儀はすごくて、なんと、17歳の時には家も手に入れてしまいました。とはいっても、欲しくて買った家ではなく、必要に迫られて買ったというところがなんとも染之助さんの御家族らしいところです。その訳は...?
2月2日 水曜日 「染太郎さんとの関係」
掛け声専門「頭脳労働」の染太郎さんと実演をする「肉体労働」の染之助さん、この役割分担は染之助さんから言い出したものでした。ギャラは折半。ギャグにしていたぐらいに、不思議なルールです。でも、染太郎さんが一人でCMに出たときも、きちんとギャラを折半してくれたのだそうです。この頃から兄弟の関係が変わっていきます。
2月3日 木曜日 「稽古と奥様」
奥様とは日本舞踊を通じてのお見合いでした。稽古ばかりしている染之助さんに驚いたといいます。染之助さんの稽古はいつも流行の音楽を掛けていました。音量が大きい上に掛け声も掛けていたのでパトカーが来たことも。夫婦喧嘩の一番の原因も稽古でした。染太郎さんの家を引き合いに出されたときは、さすがに染之助さんも困ったようです。
2月4日 金曜日「いつまでも芸を極める」
奥様が心配するので、稽古は3日に1度のペースにしながらも、今も染之助さんは精進し続けています。染太郎さんが亡くなった時も「おめでとうございます」と兄を送り出した染之助さん、だんだん一人での寂しさを強く感じるようになりながらも、染之助さんは最後まで芸人として生きていくのです。だれか、若手がいつか太神楽を継いでくれることを願いながら...。
<海老一染之助>
昭和20年二代目海老一 海老蔵師に入門
昭和21年新宿末広亭で初舞台
昭和35年(旧)ソ連文化省招聘ソビエト公演
昭和40年アメリカABCテレビ出演
ブラジル、ハワイ、東南アジア、ニューギニア、トンガ公演
昭和63年フジテレビ「笑っていいとも」にレギュラー出演
平成元年月 ビクターCD「おめでとうございます!!」をリリース