終わりよければ・・・(放送終了)

12月13日~12月17日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」<特別編>は、ピンクレディーさん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」特別編のゲストは、ピンクレディー!

12月13日(月)
邦丸さんとほぼ同年代のピンクレディーのお二人。出会いは中学時代でした。小さなときから活発な子で大人の歌を歌っていたケイさん、引っ込み思案で、最初は役者になりたかったミイさんの二人は、中学校の演劇部で出会いました。高校3年間、ケイさんの髪はミイさんがカットしていたぐらい、二人はとても仲良しになりましたが、そんな二人がお互いを大切な人と思えるような出来事がある雨の日にありました。

12月14日(火)
同じ高校に進学した二人は、ヤマハの新人オーディションを受けて合格します。ポプコン出場のためにはじめてデュエットを始めた二人、なんと、1年ぐらい歌声をうまくハモらせることができなかったそうです。デビューの見通しも立ちません。そこでオーディション番組を受けてみました。一度目は失敗。二度目は、わざとイメージを変えて見事にオーディションを突破します。それが災いするのですが...。

12月15日(水) 
スター誕生でデビューを勝ち取りましたが、マネージャーやレコード会社から期待されることも無く、フォークデュオとしてデビューする予定でした。しかし、二人の個性を見事に見抜いた阿久悠・都倉俊一コンビによって、最高のデビュー曲「ペッパー警部」を得ます。ピンクレディーという名前も決まり、ここからは大ヒットの連続! 睡眠時間は1日2時間、振り付けの練習時間もぜんぜん取れなくなってしまいます。衣装合わせの時間も無い中で、思わぬアクシデントがミイさんを襲いました。

12月16日(木)
阿久悠・都倉俊一コンビの強力なタッグは、ピンクレディーの二人にぴったりの曲をどんどん作り出していき、どれも大ヒット。睡眠不足で立っているのが不思議なぐらいの忙しさになります。しかし、盲学校の生徒のためのチャリティコンサートの為に紅白歌合戦出場を辞退したあたりから、マスコミは二人に冷たく当たり始めました。1980年はじめにはアメリカに進出、米国人以外が初のキャスターを務めたテレビ番組「ピンクレディショー」は、視聴率32%を記録しますが、帰国したときには、「解散」「不仲」といったマイナスイメージだけが踊っていました。翌年、ピンクレディーは解散を宣言しますが、その理由は意外なもので、失敗でも不仲でも無かったのです。二人は解散コンサートの後一緒に語り明かそうとしますが、疲れて眠ってしまうミイ、そんなミイに長い手紙を書いたケイ。ピンクレディーとしての忙しい日々の終わりでした。

12月16日(金)
ピンクレディを解散してから、二人はソロ活動をしますが、どうしてもピンクレディーのイメージが付きまとってしまい、思うようなソロ活動ができません。そして年月が過ぎ、ピンクレディーを作り上げてくれた人の相次ぐ―訃報に、いつまでも永遠じゃない、できるうちにピンクレディーを復活させてなくてはと思うようになります。そして再結成。オリジナルマスターテープに新たな息を吹き込んだCDも出しました。3月には大きなイベントも待っています。


<ピンクレディー>
1976年NTV系番組「スター誕生!」決戦大会でスカウトを受けたビクターより、「ペッパー警部」でデビュー。 続く「S・O・S」「カルメン'77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」「サウスポー」などを立て続けにリリースし、そのいずれもがチャートの1位を獲得。 81年3月31日後楽園球場にて解散。活動期間4年7ヶ月。
解散後~これまでに4回、期間限定の再結成を行う。 2010年9月1日、解散宣言からちょうど30年の節目の日に、ビクタースタジオで《解散やめ!》を宣言。ピンク・レディーの永続的な活動再開を発表するとともに、ニューアルバムのレコーディング中であることを明らかにした。