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長嶋さんの逆襲?(8/8) 長嶋茂雄の1塁ベース踏み忘れによる幻のホームランはあまりにも有名だが、 長嶋がベースを踏み忘れた事に気づいた広島のファースト藤井のお手柄だったとも言える。 ところがなんと長島はその逆の事を2回もしているのだ。 餌食になったのは昭和39年の森と46年の飯塚(いずれも今の横浜、大洋の選手)。 どちらも3塁ベース踏み忘れを見つけてのアピールアウトだった。 よほど幻アーチが悔しかったのだろうか?意外に知られていない事実である。 戸締り確認で助かった(8/1) 家を出た後に鍵をかけたかどうか気になって戻った経験は誰にでもあるだろう。 昭和34年の西鉄、花井悠はまさにそれだった。 10月3日の東映戦でホームランを打った花井はセカンドベースの前でなぜか立ち止まり、一旦2塁を踏んでから突然逆走を始めた。 そして1塁を丁寧に踏みなおしてから改めてダイヤモンドを1周してホームイン。 途中で1塁を踏まなかったような気がして不安で踏みなおしに戻ったのだ。 後から花井は1塁塁審に確認した。「花井さん、1塁ベース踏んでなかったよ」。 ショートゴロがホームランに変身(8/1) 昭和23年5月15日に西宮球場で生まれたランニングホームランはひときわ珍しいものだった。 ピッチャーの野口の打った打球は、ヒットエンドランに合わせてショートが右に動いた瞬間に抜けて行った。 そしてカバーに回ったセンターの目の前で打球に意思があるように突然イレギュラー! 左中間をボールが転がる間に野口は全速力で帰ってきた。ショートゴロがホームランに化けてしまった。 王の蔭で涙を飲んだ人達(7/26) 現ダイエー監督の王貞治は15回ホームラン王に輝いているが、その影でホームラン争いの2位に終わった選手は10人いる。 最も涙を飲んだのは長島の4回。次いで中日江藤と阪神の田淵が3回づつとなっている。 しかしその長島でさえ最も競った昭和38年で3本差。昭和41年は22本差の2位だというのだから比較にならない。 雨が奪ったホームラン王 (7/18) 雨による中止が心配な季節であるが、昭和47年大杉の頭上にふってきた雨はひときわ残酷であった。 7月11日の南海戦で当時東映の大杉勝男は初回に26号ホームランを打つものの2回から激しい雨が降り始め結局ノーゲーム。 幻のアーチと終わった。しかもシーズンを終わってみると、40アーチの大杉は阪急の長池に逆転されわずか1本差で敗れている。 雨はホームランだけでなくホームランキングの座も奪ってしまったのだ。 まさに撃沈 (7/18) 昭和40年8月13日。大洋対阪神。1回裏の大洋の攻撃が始まった。 先頭の近藤和彦が2球目をホームラン。これだけならドラマにはならない。何と続く桑田武が初球アーチ! 3番の黒木基康も2球目を叩き込んだ。打たれた阪神の石川投手は呆然。 5球を投げただけでワンアウトも取れずに3本のホームランを浴びて先発マウンドを追われた。 数え間違い〜〜!! (6/27) プロ野球の通算1000号アーチは南海の寺田、2000号は近鉄のクルーズ、3000号は太平洋の梅田が記録した。 ところが昭和51年になって信じられない事実が明らかになる。 37年前の昭和14年の阪神タイガースのチームホームラン数が実際は32本であったにも関わらず何と1本余分に数えられていたのだ。 計算をし直したところ、改めて阪急の渡辺らがメモリアルアーチストとして登録される事態になった。 あまりにショッキングな集計ミス。時計の針は戻せない…。 元祖・弾丸ライナー(6/27) 3点差をひっくり返す逆転満塁アーチほど劇的な終わり方はないが、 その第1号を記録したのが打撃の神様こと巨人・川上哲治だった。 後楽園球場の南海戦。中原から打った1打はライトスタンドに飛び込んだ。川上のホームランは矢のように突き刺さるライナー。 戦前誰かが川上の打球をこう呼んだ。 弾丸ライナー。今も生き続ける野球言葉である。 神主打法・岩本義行(4/25更新) 横浜が松竹ロビンスなどと呼ばれていた頃のホームランバッターに岩本義行がいる。 セリーグ第1号ホームラン。セリーグナイトゲーム第1号ホームラン。1試合4ホーマーなどの伝説の記録を打ち立てた岩本は1953年に惜しまれながら引退するのだが、何と3年後に東映の監督兼選手としてグラウンドに戻ってきた。 そして45歳と5ヶ月の史上最年長記録となるホームランをかっとばす。 バットを立てて構えるため神主打法と呼ばれた岩本にお払いをしてもらいたいぐらい元気いっぱいのホームランバッターだった。 校庭も球場?(6/20)(4/18更新) 球場不足にあえでいた昭和28年のことだった。 横浜の前身洋松(ようしょう)と広島の試合が何と尾道西高校のグラウンドで行われた。 広島白石の打球は急造で外野に張られた縄を飛び越えてホームランとなる。 しかし、本当は観客が縄を下に引っ張ってむりやりホームランにしてしまったらしいのだ。 洋松サイドは当然、猛抗議を行うが、判定はくつがえらなかった。 王貞治の幻の一発(6/20) 昭和41年11月14日。小倉球場で行われた日米野球の巨人対ロサンゼルスドジャース戦で左中間にスリーランを放った王貞治選手。 日本チームで初めてメジャーを抜く6号アーチだった。 ところが何と王は打球の行方を見守っていた1塁ランナー柴田を追いぬいてしまった。 長島に負けない王の幻アーチ。 しかしそこは世界の王。次のゲームできっちり6本目を打ちなおした。 新庄の足はやっぱり出ていた?(6/13) 2000年6月12日、当時阪神の新庄が甲子園球場の巨人戦で延長12回の裏に槙原の敬遠ボールをサヨナラヒットした瞬間を記憶している方も多いだろう。試合後、巨人からバッターボックスから足が出ていたのではないかと抗議があった。 実は通算755アーチのメジャー記録を持つ大打者ハンク・アーロンも1965年にこのルールの適用でホームランを取り消されている。もしアーロンの左足が出ていなければ756アーチとなっていた。 甲子園はラグビー場だった?(6/13) 甲子園はその昔、とてつも無く広いマンモス球場であった。 大正13年に開場したときには、何と外野でラグビーもできるように設計されたため両翼110メートル左中間右中間は、 128メートルもある扇形の球場であった。 プロ野球開幕で両翼91メートル左中間右中間119メートルにしたものの昭和22年までに、 796試合で49本しかホームランが出ていない。 1年だけの水爆打線(6/6) 昭和25年の松竹ロビンスは人呼んで「水爆打線」。 小鶴誠51本、岩本義行39本、大岡虎雄34本の3人で合計124アーチ。 巨砲トリオと呼ばれた3人が打線を引っ張り平均得点が7点近いという凄まじさであった。 しかし翌年は3人で65本と半減。その翌年には大岡は引退してしまい2人合わせて33本とまた半減。 1年だけ咲いた幻打線であった。 史上初のホーム踏み忘れ(6/6) ホームを踏む寸前、次のバッターとの握手に気を取られたガードナーはベースを踏み忘れた。 昭和56年7月19日。横浜スタジアム。 広島ガードナーの打球はライトスタンドに飛び込む逆転スリーランホームラン。 ところが意気揚揚とベンチに戻った後、大洋(現横浜)のキャッチャー辻はベースを踏んで審判にアピール。 プロ史上初めてのホームベース踏み忘れで記録は3塁打に変更。 古葉監督とガードナーの抗議が虚しかった………。 |
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