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門田は中年の星(9/20) 西武・伊東が41歳で長いプロ生活に別れを告げたが、昭和63年、南海の門田博光は40歳で44本を打ちホームラン王となった。 41歳で33本。42歳で31本。最後の2年間で25本。 40歳を過ぎてからのアーチの合計が133本と、2位の野村に倍以上の差をつけた。 30歳前よりも30歳以降のホームランが200本以上多い。 遅咲きの花ほど長く持つ。まさに中年の星であった。 代走満塁ホームラン?(9/20) 昭和52年6月13日の巨人大洋戦。ヒットで出た巨人・淡口の代走に起用されたのは蒼い稲妻こと松本匡史。 この回、見事ホームインをして役目を果たしたはずだった。ところが巨人の猛攻でこの回、打者一巡。 満塁のチャンスで松本に打席が回ってきてしまった。 そして何とレフトスタンドにホームラン。あえて言うなら代走満塁ホームランだった。 ONを破ったのは(9/12) プロ野球界の金字塔ON。アベックホームランの数は106回。昭和43年だけで14回飛び出した。 しかしこのシーズン記録は昭和60年に破られる。やはりあの2人だった。阪神タイガースのバース掛布コンビである。 16回のBK砲を放ち、21年ぶり優勝の原動力となった。 さらに昭和63年には西武の秋山バークレオコンビが14回でONに並んでいる 今は懐かしラッキーゾーン(9/12) 甲子園名物ラッキーゾーンは92年に撤廃された。 両翼は従来の91メートルから96メートルになり左中間右中間も最大で8メートルも広がった。 このため91年には@試合平均1.8本出ていたホームランが92年には平均1.2本と実に50パーセントも減ってしまった。 ちなみに昨シーズンは平均1.5本のアーチが飛び出している。 ベーブルースのひと言で(9/12) 1934年の日米親善試合。アメリカの全勝で甲子園に乗り込んだベーブ・ルース。 甲子園のスケールに圧倒された。「このグラウンドではホームランは打てない.....」 このひと言で関係者は、両翼を91メートルまで縮めた。 ちなみにこのエピソードは、小学館刊「阪神タイガース へえ〜77連発」からの抜粋。 この新刊本をリスナーのみなさんにプレゼントします。詳しくは9月13日14日の文化放送の野球中継の中で! 代打、わし(9/12) 昭和29年6月24日。46年前の甲子園球場、広島戦。1点リードされた9回裏。 ツーアウト満塁のチャンスに代打がいない。監督兼選手の藤村冨美男は三塁コーチスボックスから審判に向かって歩いて行った。 「代打、わし。」 そしてレフトスタンドに代打逆転サヨナラ満塁アーチ。ミスタータイガース、現役最後のアーチであった。 ありがたし女房役(9/12) 1995年のセリーグ開幕戦。中日対阪神、延長14回の大激戦は中日パウエルのサヨナラヒットで幕を閉じたがその名勝負を生んだのが、流れを変えた8回ウラの中村の 起死回生、同点ツーランであった。「あの場面ではヒットはだめ。今中をどうしても勝たせたかった。」女房役として意地の一発を放った中村は感激で声を振るわせながらこう語った。 今中は引退、中村は横浜に移籍。昔日に思いを馳せる。 サヨナラアーチで泣いたのは(8/22) 平成5年6月9日、金沢での巨人戦に登板した伊藤智仁の驚異のピッチング前に巨人打線は沈黙。 三振の山はセ・リーグタイ記録の16個を築いていた。 そして、0対0で迎えた9回の裏、孤独のマウンドを守る伊藤の投球をはじき返したベテラン篠塚の打球は無情にもライトスタンドへ。 プロ野球史上初めてという16奪三振の敗戦投手は18年目のベテランが放った生涯初のサヨナラホームランで誕生した。 後から気付いた三冠王(8/22) 戦前に5試合連続アーチの偉業を達成していた選手がひとりだけいた。 和製ベーブルースこと巨人の中島治康である。しかし誰も肝心な事には気がつかなかった。 昭和37年、になり南海の野村克也が初めて三冠王を取るというので調べたところ、 昭和13年に中島がすでに達成していたことが明らかになったのだ。 |
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