ちょっと空気が真夏の感じと違ってきましたが、まだまだ暑い毎日。
体調など、大丈夫ですか?
ニュースパレードで毎日お送りしている、夏企画。
今年のテーマは「戦後70年~戦争を風化させないために」。
21日(金)放送分の夏企画を担当させて頂きました。
この方のお話を聞きたいっ!
とマイクを持ってお邪魔したお相手は、高見のっぽさん。
そうです、あのこども番組「できるかな」の、のっぽさんです。
こどもの頃、大好きな番組でした...のっぽさんのマネをして、段ボールでいろいろ作ったりしたもんでした...その、のっぽさん。
のっぽさんが7歳のときに戦争が始まりました。
戦争が始まったときのこと、疎開先のエピソード、お兄さんのこと・・・
「できるかな」ではずっと言葉を発することのなかったのっぽさんが話す、戦争のこと。
お時間あらばぜひ、お耳になさってみて下さい。
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2015年8月12日。
御巣鷹の尾根に、日本航空123便が激突してから30年となりました。
今年も、ご遺族や日本航空の関係者らが慰霊のための登山を行いました。
急な斜面には「足場」として材木が並べられたほか、
工事作業車専用だった道路も解放されて途中までは車で行けるようにはなりました。
しかし高低差180メートルの急な山道は、決して楽ではありません。
恥ずかしながら私も何度か足を休め山頂を見上げました。
斜面には数えきれぬほどの墓標やお地蔵さんが佇んでいました。
30年の間にはご遺族もお歳を重ねられ、お子様を亡くされたお父さんお母さんも80代のかたが目立ちます。登山口に用意された杖にすがるように、息も絶え絶えに登られます。愛おしそうに小さなお地蔵さんの頬を両手で包んだ80代の女性は「もうこれで最後かもしれないね」と語りかけました。
「昇魂之碑」周辺にたどり着けば、小さな広場が整備されています。
午前10時半、ご遺族のみなさんはここで「安全の鐘」を鳴らし、子どもたちが空に向けてシャボン玉を飛ばしました。「風々吹くな、シャボン玉飛ばそ」とても穏やかな光景です。
でも、この歌詞は悲しすぎます。
娘さんを亡くされた81歳のお母さんが思い出すのは、ここが臨時のヘリポートであった時の光景です。ここは機体の機首部分が激突た跡地です。お母さんはここから南東の方向に目をやりました。遥か向かいの山の稜線が一部だけ凹んでいるのがわかります。
真横になって突っ込んできたジャンボの、右の主翼が削り取ったあとです。乗務員は最後まで、垂直尾翼を失った機体を立て直そうとしていました。当時正確な墜落時間が判明するまでに16時間。お母さんは「娘には外傷がほとんど見られませんでした。ですから早く救出されていれば助かったかもしれないと思ってしまいます」と打ち明けました。
今、ここにいないのと同じだけの確かさで、娘さんはあの日「行ってきます」と出て行ったのです。
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尾根の登山道等を管理し続けている黒沢完一さん(72歳)は遺族の高齢化とともに追悼施設を訪れる人が減ってきたと教えてくださいました。あの時、捜索や救出に村を挙げて協力した上野村の人口も半分ほどになったといいます。ただ、その一方で祈りを捧げる人たちの中には、日航機事故だけでなく、鉄道やバスの事故、震災で命を失った人たちの遺族の姿も見られるようになりました。
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日航機事故の遺族会(8.12連絡会)の皆さんは、これまでの30年間、ただ打ちひしがれるだけではなく自ら調査研究活動も行い、公共輸送事業者に対して抜本的な安全対策を要求してきました。そうした姿勢に共鳴して、ほかの事件事故の遺族同士の交流も深まっているのです。この日も東日本大震災の津波で息子さんを亡くされた紫桃隆洋さんにお会いしました。「命の大切さを語り継ぎ、声を上げ続けることが、公共交通や学校の安全意識を変えると思います」と話しました。9歳だった健君を亡くした8.12連絡会の美谷島邦子さんは言います。「失われた命を生かしたいのです」
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この事故では事故の関係者20人が書類送検されるも全員が不起訴になり、責任の所在は曖昧なままとなりました。私がかつて群馬県警の担当記者だったころ、膨大な資料を広げ「後世に残る捜査をしようと思った」と話してくださった当時の担当警察官も亡くなりました。
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慰霊碑に献花した日本航空の植木社長の囲み取材で、日航の広報担当者が「もう質問はありませんね」と切り上げようとした時、最後に質問をぶつけてみました。
「社長はあの日のことをどのように覚えているのですか?」
一瞬、不意を突かれたような表情になった社長は遠い目をして答えました。
「事故の翌日、私は副機長としてフライトしなければなりませんでした。事故のショックで操縦席に座ってからも動揺を隠せず足が震えました。
しかし、隣に座る機長を見ると、いつもと変わらず凛とした表情で乗務していました。その時、どんな状況でも安全を守り抜く機長になろうと決意しました」
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日航内でも社員の9割以上が事故後の入社です。
新入社員に至っては生まれる前の事故になりました。
安全への誓いを若い世代にどう伝えるのか、その重要性が益々高まっています。
久々の更新になってしまいました。
こんにちワ、ウラ・のりかずです。
猛暑日は終わった感はありますが
まだまだ残暑が、、、
ちょっと涼しいネタ(?)を
えー、先日ですが鳥取と島根の合区の取材.........
ではなく、母方の実家のある鳥取県米子市へ
ちょっと行ってきました。
仕事が終わって、20時過ぎの羽田発米子行の飛行機に乗り
米子鬼太郎空港に到着したのが21時半前。
空港の前から米子駅行きのバスも出てるのですが
『JR境線は鬼太郎列車が走ってる』と言うのがキニナル!
よし、電車移動にしてみよう!!
で、米子空港駅へ
く、暗い...、飛行機の乗客でこの駅に来たのは私だけ、、、
どうやら乗客みなさんバスかタクシー等で移動された模様。
単線の無人駅で、一人は心細かったです。。。
電車を待つコト20分強
あ、来た!
め、目玉おやじ仕様!!!!!
暗闇で見るとちょっと怖いです!
で、乗車したら。。。。。。。
一応、乗客は数名居たのですが、関東で平日の22時前に
電車がガラガラってコトは無いですし、初めて乗ったので
このシートは更にビビりました(笑)。
ちなみに天井も...
写真を撮り忘れたのですが、到着した米子駅
『0番ホーム』というホームでした!
アナウンスに鬼太郎やねこ娘の声があったりと
乗っててちょっと面白いとも感じました。
私が乗車したのは"目玉おやじ"仕様でしたが
他にも何種類かあるそうです。
夏休みに米子鬼太郎空港へ行く!とか
ちょっとキニナル!と言うリスナーさん!!
米子に行くとき、乗ってみてはどうでしょう?
不登校になった子どもたちの学習指導や教育相談を行っている民間の施設「フリースクール」。
不登校の小中学生は12万人近くに上っており、このうち約4000人が全国に約400あるとみられるフリースクールに通っています。
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ところが、こうしたフリースクール。
「スクール」と名前についてはいますが。法的には「学校」とは認められていないのです。
本来だったら義務教育を受けるべき小中学生が通っているのに法的には「学校」と認められていない・・・。このために公的な経済支援が受けられなかったり「元の学校長が認可しなければ義務教育を卒業した資格が得られない」状況にあります。
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こうした問題を解消するため、今、自民・公明・民主・維新・共産・社民の国会議員で作る「超党派フリースクール等議員連盟」が新しい法律「多様な教育機会確保法案」を提出しようとしています。(画像参照)
子どもが不登校になった場合、保護者が「個別学習計画」を作成して市町村の教育委員会に申請します。
そこでもし認定されれば、子どもは教育委員会の職員などから学習面の支援を受けながらフリースクールなどで教育を受けることができます。これによって保護者は義務教育の就学義務を果たしたと見なすというものです。
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ところが。歓迎する声がある一方で、フリースクールの創設者の一人はこの法律の仕組みに疑問を呈します。問題なのは、親が提出した子供の教育計画をもとに「教育委員会がそれを認める」ことが条件になっている点です。
不登校になった子は、学校にいけなくなっている期間がある程度長いために「ごく基本的な掛け算」なども、できなくなっているケースが少なくありません。その場合、たとえば学習指導要領などをもとに一律の合格基準をつくってしまうと基準をクリアできない子供が出る懸念があるというのです。
そして「この法案は、教育委員会などが、今まで自分たちの目や手の届かないところにあったフリースクールを自分たちが影響できる枠内に取り込もうとしているに過ぎない」と主張します。実は、こうした考え方は、フリースクールの関係者の間でよく聞かれました。
こうした懸念に対し、法案作成チームの馳浩議員は「フリースクール関係者」を含む専門家が参加して子供ひとりひとりの状況に合わせて判断をするため「上が決めた一律の基準で切り捨てる」という懸念は誤解だと言います。
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また、フリースクールの関係者からは公的な経済支援をどのように行うのかについても懸念が出ています。
「大手教育産業などの参入が加速化するやりかただと、親などが協力してやってきたフリースクールが淘汰されたり、進学率を競うようになって、本来の目的からかけ離れたものになる恐れがある」というものです。このため子供一人一人に金券を配り、自分にあった学校にそれを支払って通学する「バウチャー制度」が検討されています。
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フリースクールはその名の通り、子どもが無理せず、自由に学べる場だからこそ学校に通えない子供の受け皿になってきました。
フリースクールがフリースクールである理由を失わないような制度設計が必要だと思います。
警視庁のトップ、警視総監。
きょう付で第92代警視総監に高橋清孝(たかはし・きよたか)氏が就任、
高綱直良(たかつな・なおよし)前総監から事務引き継ぎを受けました。
高橋・新総監は、これまで警視庁の警備部長や警察庁の警備局長を歴任。
北海道警本部長の時には、洞爺湖サミットの警備を指揮するなど
警備・危機管理のスペシャリストと言われています。
座右の銘は、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」。
就任会見で高橋・新総監は、「強さと優しさを兼ね備えた警視庁を体現し、
期待と信頼に応えたい」と抱負を述べました。
今後は、来年の伊勢志摩サミットと、開幕まで5年を切った
東京オリンピック・パラリンピックの警備体制づくりにも
取り組むことになります。
7月2日~6日まで、ビザなし交流で国後島と択捉島を訪問。
報告、第3弾は番外編。
ビザなし交流では恒例の文化交流、今回は能面と日本庭園を紹介。
能面づくりの実演では、大人も子供も興味津々、能面が披露されると、大人はもちろん、子供たちも一斉にスマートフォンを取り出して撮影。
携帯電話開通は、択捉島=2005年、国後島=2006年。
今ではほとんどの島民が携帯電話を持っているそうです。
インフラ整備により道路が舗装されていますが、未だでこぼこ道も多く、島内を走る車はRV車かトラック。壊れにくい日本車がほとんどでした。
見かけはあきらかにバス停ですが・・・島民に聞いたところ、バスは走っておらず、いわゆるヒッチハイクをする目印とのこと。本当のところはわかりません。
択捉島では、一般家庭に訪問しました。
私が訪問したのは、択捉島で最大の水産加工会社ギドロストロイの社員のお宅。
大きなテーブルに乗り切らないほどの料理でもてなしていただきました。
写真の料理は一部。ピロシキ、ボルシチなどの伝統的なロシア料理ではなく、一般的なロシアの家庭料理だとか。デザートも数種類ありましたが、話が弾んで(日本語とロシア語とゼスチャーで)料理をゆっくり食べる時間がなかったことが悔やまれます。
ちなみにロシアでの食事ですが・・・
友好の家「ムネオハウス」での昼食
エトピリカ号でのある日の夕食
総勢、75名ほどの団員とともにした3泊4日の北方領土訪問。
日露の人々の交流が主な目的ですが、この交流事業を見直すべきとの声も出ています。
24年目となるビザなし交流は、始めたころは隔たりがあった眼差しも、回を重ねる毎に暖かいものにかわり、友情と信頼関係を醸成してきたのは事実。
日露間で進める領土交渉の後押しになることが期待されます。
文化放送報道制作部では「ニュースパレード」を中心に、日々のニュースをお伝えしています。
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それをお伝えする場所が、このリニューアルしたブログ。
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