東急東横線の渋谷駅に続き、
23日からは小田急線の東北沢~下北沢~世田谷代田の3駅が地下化しました。
写真は地下化直前、京王井の頭線と立体交差する下北沢駅です。
地上の下北沢駅と地上を走る電車の別れを惜しむ人の姿で賑わっていました。
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そして、下北沢の駅は地下3階へ。
今後は地下2階が主に各駅停車、地下3階が主に急行のホームとなります。
電車が走らなくなったホームや線路では早くも工事が始まっています。
「開かずの踏切」はなくなり便利になりますが、
「ごちゃごちゃしたシモキタは変わらないでほしい」という声も。
4月2日に歌舞伎座が開場するのを前にして、
中村時蔵さんら歌舞伎俳優63人が銀座を練り歩くパレードが行われました。
冷たい雨が降り、銀座4丁目交差点にある看板には「気温7度」・・・あまりに寒いので写真を撮り忘れました。
銀座でパレードといえば去年8月のロンドンオリンピックのメダリストたちですが、あのときはオープンバス。
今回は「練り歩き」なので、紋付袴姿の歌舞伎俳優たちが同じ目線の高さを歩いていきます。
一番歓声が上がったのは市川海老蔵さん。
そして人の名前だけでなく、「成田屋!」「中村屋!」などと屋号を呼ぶ声も。
集まった人に話を聞いてみると、市川海老蔵さんや中村勘九郎さん、七之助さんなど、
新しい歌舞伎座を舞台に、若手の人気俳優たちに期待する声が多かったです。
こけら落としまであと少しです!
16日から東急東横線と副都心線の相互直通が始まりました。
人の動きが変わりそうですし、JR山手線ユーザーにとっては混雑の緩和が期待できます。
地上の駅がなくなるということで、直前の渋谷駅は写真を撮る人たちで大混雑。
ホームがいくつもあって、改札から列車が正面に見える景色が
「ああ、これこそターミナルだ」と感じられたので少しさびしくもあります。
そして地下5階に移った新しい渋谷駅ですが、なんと複雑なこと。
東武東上線直通と西武池袋線直通の電車が同じホームに来ますし、
階段の一部が狭いこともあり、列車が着くとごった返す印象でした。
「ハチ公はどっち?」「ヒカリエは...?」と警備員さんに聞いている人も多かったです。
今後は東横線の日吉駅から相鉄と相互直通する計画もあります。
そうなるとさらに人の流れが変わり、複雑になりそうですね。
岩手県宮古市の個人営業の本屋さん、「ブックス西が丘」。
本屋さんとはいうが、文房具や駄菓子なども置いてある昔懐かしい本屋さんだ。
店長の鈴木美知子さんは、この2年間、店舗の中に
被災者に無料で提供し、生活再建を応援する「支援物資」コーナーを作ってきた。
震災で店舗が壊れ、本も届かなくなったが、空いている本棚を利用したのである。
最初は私物の洋服などを並べていたが、近所の人の協力や知人のブログを介し
共感は全国に、そして海外へと広がって、大きなネットワークとなっていった。
毎日数十箱の物資が届き、東京から戻った娘さんと必死に仕分け作業を進めたという。
駐車場に支援物資を並べる催しを開いたら、800人以上のかたが列を成した。
・・・なぜか。
避難所や仮設住宅などには支援物資が届いても
親類宅に身を寄せる人々には十分に届いていなかったのだ。
今でも、支援物資の橋渡し活動は行っており、
この本屋さんはいつしか、被災者同士の憩いの場、情報交換の場にもなった。
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2年たった今でも支援物資は必要なのですか?と聞くとこんな答えが返ってきた。
「自立できるのは若い世代のかたがたなの。
お年寄りなどは今も生活に困っているのです。
行政の目の届かないところにも被災者はたくさんいるのよ」
津波で倒壊した家屋から流された写真やアルバムを自衛官や消防は拾い集めてきた。
岩手県宮古市だけで少なくとも二万点。それらを丁寧に洗浄し持ち主の元に返そうとしてきた人々がいる。
市役所も連携し、去年春に常設の返却センターが設けられた。
持ち主の手がかりがあれば写真を携えて訪ねて行くこともある。
すると最初は驚かれ『どこにあったんですか』と写真を愛しそうに手にとるという。
311の追悼式典でも会場の別の部屋で1500点が展示された。
湯船ではしゃいでいる父親と幼い子供、
幸せそうな新郎新婦と緊張した面持ちでマイクを握る父親、
運動会のゴールシーン・・・。
会場で一生懸命アルバムを探していた来場者は
『あった!』と声をあげ、写真ではなく、子供の表彰状を見つけた。
市の担当者は言う。
『写っている人の想いはもちろんですが、決して写真に映ることのないシャッターを押した人の想い。
そしてセピアに色褪せても、ずっと大切に保管してきた人の想いがここにあるんです』
会場で市の担当者や来場者にインタビューをしながら生レポートをした。
来場者の録音カットをイヤホンで聴きながらインタビュー相手の担当者は言った。
『ああ。いいですね。宮古の言葉だ。』
例え家や大切な人が失われても、みんなが一緒に暮らした事実だけは誰にも奪えない。
写真がその証しになるのなら一枚でも持ち主のもとに返って欲しい。
(画像は2013年3月11日の宮古湾&重茂半島)
3月11日、東日本大震災発生から丸2年。1万5881人の犠牲者の3回忌だ。
今も尚、2千600人を超す行方不明者を数える。
行方不明者数と震災関連死者数を加えると犠牲者の数は2万人を超える、
まさに未曾有の大災害だ。
3月11日、私は被災地のひとつ、
岩手県宮古市の東日本大震災二周年追悼式の取材に行って来た。
ここ宮古市も巨大地震と大津波による犠牲者が500名を超す。
追悼式会場となったシーアリーナには1時過ぎから
犠牲者遺族をはじめ大勢の市民が集まってきた。
遺族代表の追悼挨拶を行った佐々木なおみさんは夫と祖母を震災で亡くした。
夫はなおみさんの実家の家業を継ぐため婿養子となり、仕事中に震災に遭遇し、
津波に流されて命を落とす。追悼挨拶でなおみさんは、
「私と結婚なんかしなければ死なずに済んだかもしれない。ごめんなさい」
と夫に詫びた。
2年の歳月は彼女から悔恨の情をまったく消し去っていないのだ。
一方、宮古市内で被害が大きかった鍬ヶ崎地区や田老地区を歩くと、
津波が幸せな日常を奪い取った爪あとが今なお生々しく残る。
人も町も復興にはほど遠い状況をあらためて知る。
震災発生時刻=午後2時46分の黙祷ではこみ上げてくる感情を抑えるのに必死だった。
被災地の復興は住宅やインフラだけではない。
被災者の気持ち~心の復興も重要だ。その為にも我々文化放送報道Gは
常に自問自答をしながら震災報道に携わる。~被災地報道にピリオドはない。
文化放送報道スポーツセンター部長 関根英生
東日本大震災による宮古市における犠牲者は死者・行方不明者をあわせると500人を超えます。
中心部から1、5キロほどにある鍬ヶ崎地区は魚市場を抱える漁港です。鍬ヶ崎地区は
大震災による大津波で市場や水産加工の工場、そして海岸から近い平坦地の民家が流され、
多大な被害を受けました。2年経った今も瓦礫こそ取り除かれたものの、「手付かず」の状態です。
いわき市の北部の沿岸に位置する久之浜地区の写真です。
14時46分にはサイレンが鳴り、堤防の上に集まった人たちが
海に向かって手を合わせていました。
この地区では堤防を高くし、海に近い場所は防災緑地として整備する予定です。
ある方はこんなことを話していました。
「旦那が行方不明になったままなのでここで待つしかない。久之浜には戻りたい。」
IOC評価委員会の東京視察を取材した。初日、報道のニューフェイス、N記者、2~3日目は、伸び盛りの20代、Y記者が取材したので、ひそかに「ロートルのアタシも取材したいでちゅ」と思っていたら白羽の矢が。(ウッシッシ)
でも、フジテレビ「ニュースJAPAN」に、アタシが記者会見場で爆睡している映像が流れてしまったらしい。(だって、慣れないモバスタ=現場からLIVEで音声送りができるスグレモノの装置、を使って、疲れちゃったんだもん)
言い訳をすれば、IOC側の会見に続いて、30分間、インターバルを置き、同じホテル内の会場で東京招致委員会側の会見があったので、ちょっと油断⇒睡魔に襲われる⇒思わず櫓を漕ぐ⇒フジのカメラに映る・・・という不覚を喫してしまったのだ。(だってアタシは朝型人間だもの)
で、肝心のIOCの視察は・・・と言うと、
個人的な見解だが、東京が、かねてからリーディー評価委員長が話していた「なぜ東京なのか?」という問いに、きちんと答えられたか、と聞かれれば、必ずしもそうではなかったのでは、という疑問が残る。
東京都の猪瀬知事は、「4年前の教訓を参考に、今回は皇室も総理も財界も、そして東京都やスポーツ関係者もオールジャパンで大会招致を訴えることができた」と言う。
竹田理事長もまた、外国人なら誰しもが気にするであろう原発事故の影響について、「きちんとした放射線量のデータを出し、東京はなんら問題ないことを説明した」と語った。
そして2人とも、「東京ならコンパクトで安全に、きちんと五輪を運営できることをアピールできた」と胸を張った。
でも、これらって、「なぜ東京なのか?」の直接的な答えじゃないよね?
放射線量のことだって、どこまで納得させられたのか未知数だし、東京招致委員会は確かにがんばったとは思うけど、まだどうなるかわからないなー、というのが正直な感想。
今月18日からはマドリードが、24日からはイスタンブールが、それぞれ評価委員会のメンバーによる調査を受けるので、その内容しだいだろうけど。
それにしてもきのうはトルコのメディアが多かった。イスタンブールを抱えるトルコは、やはり、「東京対イスタンブール」になると踏んでいるのだろう。
そういうわけで、東京に対するIOCの評価は実際のところ額面どおり受け取ってはいけないと思うし、東京が今回の接待にいくら使ったのかも、関係者が一切答えてくれなくて、どうもスッキリしない部分が多いんだけど、写真右のドーピング検査車だけは、「Wao!」と思ったね。
レントゲン車をバカでかくした外観。中は、選手が検査を待つための応接スペース、トイレ、採血採尿をするエリアの3つに分かれていて、いつでもどこでもチェックができるというのは、日本の「売り」か。
選手村ができる前に調整のために早めに来日するチームにも帯同できるし、どのべニューにも車ならさっと行くことができるもんね。
こういう部分も含めて、東京が高い評価を受けることができていたらいいんだけど。
最後に余談だけど、きのうの会見を仕切っていた某イベント・広告会社の方って大変だよね。アタシなんて、彼らとは、ipad発売イベントや新宿のビックロ開店、年賀ハガキ発売セレモニーでも会っちゃったもん。(まあアタシも、ロートルのくせに、いろんな取材に首を突っ込むから疲れて眠くなっちゃうんだね・・・ZZZ)
やっぱ、モバスタを使う仕事はN記者とY記者に任せよう。音は伝書鳩で送らなきゃ。
28日にいわきのホテルに入り、翌日1日、朝起きてびっくり。朝食会場が、東芝、日立のプラント会社の作業員、鹿島や竹中工務店の下請け社員で満員。
しかも、朝6時すぎにホテルを出て、福島県広野町のJヴィレッジまで向かう道路も、作業員を乗せたクルマやトラックで大渋滞。
「ここは放射能との戦場なんだ」と実感しつつ、Jヴィレッジから東電が用意したバスで福島第1原発に入った。
東電は信用できなくても線量計は正直だ。Jヴィレッジではゼロを示していたデジタル数字が、免震重要棟に来ると22.60マイクロシーベルトまで上がる。(ドキッ)
左の写真は、私たちが4号機を取材している場面。
ここの線量は高くなかったけど、1号機の排気口前や、水素爆発で外壁が吹き飛んで以降、むき出しの3号機のタービン建屋前では、一気に1040.00マイクロシーベルトを記録した。(うわっ)
私たちは、取材機材をすべてラップで防護。
体も、サージカルマスクやタイベックス(=防護服)で全体を覆った。
手は綿の手袋の上からビニールの手袋を2枚重ね。靴下は2重、靴もビニールで裏までカバー。
それでも、現地で5時間取材した私は、89.00マイクロシーベルト被ばくした。ただこれは、胸部X線検査での被ばくと同程度で、ホールボディカウンターでも「異常なし」。(ふうっ)
ただ、毎日働いている作業員は大変。
日々400トンもの汚染水が増え、メルトダウンした1~3号機の使用済み燃料は取り出せるメドすら立たない中、見えない放射能と戦い続けている。
東電は、ゆくゆく70万トン分の貯蔵タンクを作るメドをつけているそうだけど、そもそも汚染水が満タンに入ったタンクがずっと置かれていること自体、リスク。
多核種除去施設もまだ工事段階で、これができたとしてもトリチウムだけは除去できないため、海にも流せない。燃料の取り出しについては、これから「研究する」とか。(ハァ・・・)
作業員の拠点となっているJヴィレッジにも免震重要棟には、全国から届いた千羽鶴や激励の手紙が飾られていた。
日立のプラント会社作業員らに話を聞いたが、「高い技術はあっても、放射能との戦いは経験したことがない」作業。しかしこの難しい作業が廃炉まで30年近く続くのだ。
原発事故からまもなく2年。安倍内閣は、高い支持率を背景に「原発回帰」を鮮明に打ち出し始めている。
「成長戦略にはエネルギーが不可欠」と再稼働を望む経済界、そしてこれまで原発マネーで生きてきた自治体のボルテージも上がり始めている。
実際、クルマで福島県楢葉町や広野町を走れば、小さな自治体には分不相応な公園、文化施設が目につく。人っ子ひとりいない自治体に、それらは原発マネーに依存してきた行政の末路を、見る人に訴えかけているようにも見える。
代替の自然エネルギーの確保がままならない中、政財界の思惑や他の原発城下町などの気持ちはわからないではないが、福島の現実を見てもそう言えるか、是非とも問いたくなった。
東日本大震災の津波で被災したJR大船渡線でBRTによる仮復旧が始まりました。
BRTはBus Rapid Transitの略で、バス専用のレーンを走るため、時間に正確なことが期待されます。
とはいえ、現在は盛~大船渡間の1.9kmのみなので乗客からも「普通のバスと一緒じゃ...?」とも。
まぁ、違うのは「専用レーンを走ること」なので、見た目は普通のバスですからね。
この専用レーンも夏までには盛~小友間の13.2kmまで延伸しますし、
鉄道だったときよりも本数が増え、特に通学には役に立ちそうです。
「仮復旧」ということで、今後この区間がどうなるかは決まっていません。
気仙沼線と同様、沿線自治体は鉄道での復旧を求めています。
ただ、街作りとの連携などが必要なため、
BRTでの「仮」復旧がいつまで続くかは見通せない状況です。
ちなみに、気仙沼駅で盛駅までのきっぷを買ったら...駅名にも「BRT」。
文化放送報道制作部では「ニュースパレード」を中心に、日々のニュースをお伝えしています。
その一方で、私たちの周りには普段のニュースでは伝えきれないような話が溢れています。
それをお伝えする場所が、このリニューアルしたブログ。
部員それぞれがゆるやかに伝えていきます。
ニュースの「おまけ」として楽しんで頂ければ幸いです。
よろしくお付き合いください。