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文化放送報道スペシャル「震災と被災地メディア」第二回
(11月11日放送)をお聴きいただきまして、ありがとうございました。
被災地とともに育ち、これからも生きていくメディアが
あのとき震災をどのように伝え、
今、どんな使命感を持っているのか。
そこからメディア全体が学ぶべきものは何かを追求する
このシリーズ。
次回、第三回は
初めて原発事故報道に直面した「ラジオ福島」です。
「あの伝え方でよかったのか」と、
今でも自問自答するというラジオマンたちの
「決断」と「葛藤」をお送りします。
この経験を通して、ラジオの役割をどう感じているのか。
放送は18日=今週金曜日、夜9時。
ナレーターは福島出身の唐橋ユミさんです。
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ここで、第二回の内容を振り返ってみます。
仙台の街を行く人々に
ある雑誌を示してマイクを向けると笑顔がはじけました。
「うわあ、この雑誌持っています。元気づけられました。
掲載されたお店、ぜんぶ行きたかったなあ」
これは「せんだいタウン情報 S-style」
月刊で発売されている雑誌で、仙台市を中心に六万部が発行されています。
被災当時の仙台は、デパートも個人の商店も、コンビニも営業しておらず、
食料も物資も足りていませんでした。
しかし「S-style」の出版社「プレスアート」では
地震からわずか3日後に社員が集まり、
雑誌を発行するべきかどうかを含めた会議をしていたのです。
自粛ムードが広がり、被災した社員もいる中で、タウン誌に何ができるのか。
その時に出した結論は
「タウン誌の原点である、街の情報を伝えること」
被災から立ちあがろうとしているお店を取材するという方針が決まりました。
Sスタイルのスタッフは全部で12名。
ガソリンがない中、自転車や徒歩でひとり10件近くお店をまわりました。
するとわかったのは、ほかのメディアでは紹介されていないけれど
それぞれの店が普段の恩返しの意味も込めて
「炊き出し」をするなど、市民の力になろうとしていたことでした。
スタッフは、こうした店を丹念に取材していきます。
取材の時に心がけたのは「できるだけ笑ってもらうこと」
笑顔に飢えている状況でしたが、
あえて、表紙も紙面も「笑顔」で構成しました。
普段よりも少なく発行して販売したのですが、
結果、普段以上の注目を集め、完売しました。
Sスタイルが出ることで、身近な情報と元気を得られただけでなく、
「雑誌が出ることによって、安否確認ができた」という声もあがりました。
そして、お店を再開しようか迷っている人や、
再開したものの迷いを感じている店長に勇気を与えました。
Sスタイルの取材を受けたハンバーグ店HACHIを経営する
Y's Planning代表取締役の角田秀晴さんは、
「震災後、始めて発行されたSスタイルを読んだ時
街に元気を取り戻したいと考えていた飲食店の声を
代弁していると思いました」と話してくださいました。
(※Y's Planning代表取締役、角田秀晴氏への取材風景)
プレスアートの川元取締役は言います。
「僕たちは報道機関じゃないけれど、元気を伝えることはできるんです」
誌面には、みんなが欲しくて欲しくてたまらなかった
「笑顔」と「日常」が載っていたのです。
身内を亡くし、
避難所暮らしを余儀なくされた女性から編集部に送られた手紙には
こうありました。
「あたしね、おにぎりを買うのを我慢して
この雑誌を買いました」
(取材:石森)
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タウン誌と並び、
身近な情報を発信するメディアとして機能しているコミュニティFM。
もう放送を終了していることろもありますが、
今回は継続している放送局を二箇所取材しました。
(※「みやこさいがいエフエムの佐藤省次事務局長と木村彩子アナ)
岩手県宮古市の「みやこさいがいエフエム」は
宮古市内で初のコミュニティFMとして誕生しました。
エフエムを立ちあげた「みやこコミュニティ放送研究会」は
今年8月に岩手県で開催される予定だった
「北東北インターハイ」を中継するために作られた研究会でした。
震災のためインターハイの開催場所は、秋田県に変更されましたが、
研究会は震災の発生を受け、
急遽3月18日に急遽「災害FM」の免許申請。
スタッフは、ほぼ素人。
それぞれの生活もままならないなか
22日から本放送をはじめました。
地震から1カ月の間「みやこさいがいエフエム」が伝えたのは
安否確認や電気・水道、給水車などライフラインに関わる情報、
ガソリンスタンドやお店の開店情報でした。
ライフラインが整ってからの「みやこさいがいFM」は、徐々に放送内容を変え、
復興市のお知らせやお店の営業再開、キャンペーンなどを伝えて行きました。
生活に精いっぱいだった街の方からも声をかけてもらえるようになり、
明るい放送が増えていきました。
ただ、アナウンサーの木村さんは、
同じエリアの中でも復興のスピードが違うため
「どう声をかけていいのかわからない」ときもあるといいます。
たとえば、仮設住宅の方々の話をきくときに、
「何もなかった地域に住んでいる私」がどう言葉をかけていいのか
悩んでしまうのです。
仮設住宅のある町内会の人も同じ思いでいたようで、
「歓迎会を兼ねた盆踊りを通じて交流したいから取材して」と言われ、
放送にのせたところ大きな反響があったといいます。
実際、各地の仮設住宅では「自治会」が設けられ
さまざまなイベントが行われるようになってきました。
木村さんは、
「同じ宮古人として
いろんな地域の「小さな元気」をかきあつめ、届けていく。
そして「まんべんなく皆で幸せになっていく」
それが
これからの役割だと思います」と語ってくださいました。 (取材:奥山記者)
もうひとつ。
宮城県亘理郡山元町(やまもとちょう)。
太平洋に面し、福島県の県境に位置する、人口およそ1万5000人。
地震から10日後の2011年3月21日、
この町にも、災害エフエムが誕生しました。
「りんごラジオ」です。
(※りんごラジオ)
立ちあげたのは、高橋厚さん。
1967年に東北放送元アナウンス部長。
2003年に定年退職してから8年間、山元町で暮らしています。
地震発生直後
防災無線のアンテナが折れ、スピーカーもやられてしまいました。
キー局からの情報もとれず、
マスコミから役場への電話も通じない状況でした。
「これではいけない」
ノウハウや人脈を考えると自分をおいて他にやれる人はいないのでは?
地震から10日後、異例の速さで「りんごラジオ」の放送がはじまったのは
高橋さんの人脈と行動力によるものでした。
FM長岡の社長に放送ができるようにしてほしいとお願いし、
放送機材一式を持ってきてもらったといいます。
開局直後はライフラインや安否情報、避難所や給水車の情報を。
ゴールデンウィークを過ぎると仮設住宅の建設具合や
罹災証明書の情報など、街の復興を伝えました。
スタッフはボランティアです。
小学生が放送席で校歌を歌ってくれたりと、
必要な情報だけではなく、人のぬくもりを感じる放送を続けました。
しかし課題もあったと振り返ります。
他の震災よりも「こういう情報がありますよ」というのが少なかったし
伝達手段も乏しかった
受信には慣れているが、発信には慣れていなかった
自らが「発信源」である、という自覚がなかった・・・。
高橋さんはこう語ります。
「山元町のために存在するラジオで、
臨時であること、コミュニティラジオであること、
ひとつでも忘れると町民から必要とされなくなる。
大きなメディアの役割は鳥の目を持つ。
ある時はジャーナリスティックに。
でも、コミュニティーFMは昆虫の目でいい。
キー局が伝えられない細かい情報を伝えていくのだ。
おのずと役割分担ができていく」
高齢者が多いこの地域では
インターネットよりもラジオが求められました。
ただ、資金面など存続には難しい問題もあります。
今度どうしていけばいいのか。
高橋さんたちは模索しています。(取材:小谷D、奥山記者)
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地域に密着した比較的小規模なメディアが伝える内容は
そのまま、被災者が求める内容を表しています。
そこには、東京など他の地域からは見えにくい「要望」もありました。
確かに、役割分担は生まれるのでしょうが
こうしたメディアとキー局などが連携を密にして
情報交換をするシステムが作れないものだろうかとも思いました。
では、今週金曜日の第三回(シリーズ最終回)
「ラジオ福島」もどうぞお聴きください。
番組へのご感想もお待ちしています。
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