« 野田内閣発足 | メイン | 身元不明遺体 »

2011年9月 5日 あれから。

2011年3月11日に発生した
東日本大震災。
あれからまもなく半年。

被災地に滞在する取材はこれまで3回行ってきたが
4度目の今回は
一番最初に訪れた場所、仙台市の荒浜地区を訪れることにした。

ここは沿岸部であり、
津波で壊滅的な被害を受け
当時は足を踏み入れることができない惨状だった。
砂浜には数百人の遺体が残されたが
安置するための作業もできなかった。

しかし今回訪れてみると・・・
299887_168786006531506_100002003230579_362756_6904819_n.jpg

悲しいほど優しい青。
誰もいない砂浜。

それでも振り向くと
荒野に残る防波堤の上に人影を見つけた。

67歳の職人さんは無口だったが、
水平線から目を離さないままつぶやいた。

『波音を子守り唄代わりに育ったんだ。
家を奪われてもここに来てしまう。
自分でもどうしてなのかわからねえ』
何も言えなくて2人で海を見た。

僕も海の近くで育ったんです。
300426_168773233199450_100002003230579_362662_4848115_n.jpg
あれから怖くてこの海に来られなかった若者も
初めて浜辺に来ていた。
この日、彼の中で何かが変わった。
『流されたアルバムの代わりに仲間たちと沢山写真を撮るんだ』
アルバムができたら教えてくれよと約束してきた。

仮設住宅の皆さんも取材した。
事前に連絡ができないため全くのアポ無しなのに、
あたたかく迎えて下さった。お茶菓子まですすめて下さった。

家も畑も生き甲斐もながされたが二年後に出なくてはいけない。
生活再建には程遠い。
時間がたつということは
思い悩み恐怖と対峙することも増えるということだ


・・・それなのに。

仮設住宅のおばあちゃんに言われた。
『あたし畑仕事をする時には
いつもラジオを聴いてたの。
そしたら大きな津波が来るって聴いて。
学校に逃げたら校庭に波が。あたし命拾いした。
ラジオっていいものね、あなたもがんばってね』

僕なんか、僕なんか。


なぜ東北の人々は、
自分が一番大変で不安なのに皆
『取材頑張ってね』と笑顔を見せてくれるのだろう。

~~~~~~~~
201108291644000.jpg

原発の問題は深刻。
他の地域に住む皆にも影響するから
ニュースや新聞では毎日のように伝えられる。

でも、津波の被害に遭った地域のことを
「置き去り」にしてはいけない。


瓦礫の撤去が進んでも戻れるかどうかは決まっていない。
国の復興計画が決まらなければ
財源の裏付けなしに自治体も動けないのだ。


~~~~~~~~~~~~

仙台を離れて南三陸。


ここで取材に応じてくださった地元紙の記者を見送ったあと
ふと瓦礫の荒野で目にとまったものがある。

294834_169161303160643_100002003230579_363712_3221488_n.jpg

もう半年近く君はここにいるのか。
君が大切な友達にもう一度会えるように、
そのままにしておくよ。
〜南三陸・志津川。瓦礫の撤去は未だ5割。
コンクリートと雑草と泥の世界なんだけど、
君だけが真っ赤に目立ってた。
正義の味方の君が、
君の大切な友達を、今も守っていると信じたいんだ。
310635_168726636537443_100002003230579_362467_5891958_n.jpg

文化放送報道制作部では「ニュースパレード」を中心に、日々のニュースをお伝えしています。

その一方で、私たちの周りには普段のニュースでは伝えきれないような話が溢れています。

それをお伝えする場所が、このリニューアルしたブログ。
部員それぞれがゆるやかに伝えていきます。
ニュースの「おまけ」として楽しんで頂ければ幸いです。
よろしくお付き合いください。

2014年10月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31