2011年3月11日に発生した
東日本大震災。
あれからまもなく半年。
被災地に滞在する取材はこれまで3回行ってきたが
4度目の今回は
一番最初に訪れた場所、仙台市の荒浜地区を訪れることにした。
ここは沿岸部であり、
津波で壊滅的な被害を受け
当時は足を踏み入れることができない惨状だった。
砂浜には数百人の遺体が残されたが
安置するための作業もできなかった。
悲しいほど優しい青。
誰もいない砂浜。
それでも振り向くと
荒野に残る防波堤の上に人影を見つけた。
67歳の職人さんは無口だったが、
水平線から目を離さないままつぶやいた。
『波音を子守り唄代わりに育ったんだ。
家を奪われてもここに来てしまう。
自分でもどうしてなのかわからねえ』
何も言えなくて2人で海を見た。
僕も海の近くで育ったんです。
あれから怖くてこの海に来られなかった若者も
初めて浜辺に来ていた。
この日、彼の中で何かが変わった。
『流されたアルバムの代わりに仲間たちと沢山写真を撮るんだ』
アルバムができたら教えてくれよと約束してきた。
仮設住宅の皆さんも取材した。
事前に連絡ができないため全くのアポ無しなのに、
あたたかく迎えて下さった。お茶菓子まですすめて下さった。
家も畑も生き甲斐もながされたが二年後に出なくてはいけない。
生活再建には程遠い。
時間がたつということは
思い悩み恐怖と対峙することも増えるということだ
・・・それなのに。
仮設住宅のおばあちゃんに言われた。
『あたし畑仕事をする時には
いつもラジオを聴いてたの。
そしたら大きな津波が来るって聴いて。
学校に逃げたら校庭に波が。あたし命拾いした。
ラジオっていいものね、あなたもがんばってね』
僕なんか、僕なんか。
なぜ東北の人々は、
自分が一番大変で不安なのに皆
『取材頑張ってね』と笑顔を見せてくれるのだろう。
原発の問題は深刻。
他の地域に住む皆にも影響するから
ニュースや新聞では毎日のように伝えられる。
でも、津波の被害に遭った地域のことを
「置き去り」にしてはいけない。
瓦礫の撤去が進んでも戻れるかどうかは決まっていない。
国の復興計画が決まらなければ
財源の裏付けなしに自治体も動けないのだ。
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仙台を離れて南三陸。
ここで取材に応じてくださった地元紙の記者を見送ったあと
ふと瓦礫の荒野で目にとまったものがある。
もう半年近く君はここにいるのか。
君が大切な友達にもう一度会えるように、
そのままにしておくよ。
〜南三陸・志津川。瓦礫の撤去は未だ5割。
コンクリートと雑草と泥の世界なんだけど、
君だけが真っ赤に目立ってた。
正義の味方の君が、
君の大切な友達を、今も守っていると信じたいんだ。
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