August 14, 2009 08:52 PM
スタッフ日記~40~
どうも、番組スタッフの剣持です。
第40回の今回は、サッカーJリーグ元チェアマン・キャプテンで、
現在は日本サッカー協会名誉会長の川淵三郎さんにお話を伺いました。
・1958年 日本代表に初選出。
・1959年 ローマ五輪アジア予選出場。
・1960年 第7回チリW杯アジア予選出場。
当時の日本のサッカーは、国際経験も無かったし、そのチャンスも無かった…
(1960年に、イングランドのアマチュアのチームと試合をして6-1で負けるような)
アマチュアと試合をしてもらうのも大変なくらい弱かった。
・1964年 東京オリンピック出場、対アルゼンチン戦でゴールを挙げる。
しかし、ドイツの一流コーチ、デッドマール・クラマー氏の、4年間に及ぶ指導により、
東京オリンピックでベスト8、メキシコオリンピックでは銅メダルを獲得するほどに!!
だが、クライマー氏による指導は、ごく一部の選手に限られていたため、
サッカー人口の底辺である若い選手が育たず、また日本のレベルが下がっていった…
(その後、漫画『キャプテン翼』の人気により日本サッカーの底辺は広がることになる。)
・1981年 日本代表監督退任。
・1982年6月 古河電気工業・名古屋支店金属営業部長。
1982年、オリンピック予選で日本はアジアで負け(5連敗)、
『日本のサッカーの先行きは、もう無いな…
仕事でしっかり生きて、会社の中で偉くなろう。』と、仕事に打ち込んだ…
・1988年6月 古川産業へ出向、取締役伸銅品部長。
8月 JSL総務主事就任。10月、日本サッカー協会理事就任。
が、その矢先に左遷!!
そこで、“もう1回自分の人生、何か生きがいのある物を!!”と探した時に、
『サッカーだなぁ~。サッカーに帰りたいなぁ~。』と思い、
当時の日本サッカーリーグの総務主事になった。
・1989年6月 JFA・プロリーグ委員会委員長就任。
・1990年8月 プロリーグ検討委員会委員長就任。
・1991年3月 強化委員長、プロリーグ設立準備室長就任。
11月 社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)設立、初代チェアマン就任。
11月 30年勤続した古河電気工業退社。
『日本でサッカーがプロになるなんて、出来る訳が無い!!
人気も無い、競技場も無い、TVの放映も無い…の無い無い尽くし!!
しかも弱い!!これでプロだなんて笑わせるな!!』
という、日本サッカーの当時の状況…
しかし、『人気のあるスポーツに変えたいな~。』という思いは常にあった。
・1993年5月 Jリーグ開幕、国立競技場にて開幕宣言。
ドーハの悲劇:1993年10月28日、カタールのドーハにて行われた
日本代表とイラク代表のサッカー国際試合において、試合終了間際の
ロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入り、日本の予選敗退が決まった。
それまで全てが順調に行き過ぎていたから、
寧ろ『世の中こんな順調に物事行くはずないよなぁ~。』と…
自分自身は凄く冷静なつもりでいた。が、周りから見たら
顔面蒼白を通り越した顔をしていたらしい。
もしもあの時勝っていたら、ドーハの悲劇は無かった訳で…
印象としては、アメリカのワールドカップ初参加で終わっていただろう。
この経験があったからこそ、『このまま負けたままで終わって堪るか!!』と、
ものすごく大きなプラスになった!!
・2002年7月 Jリーグチェアマン退任。日本サッカー協会会長(キャプテン)に就任。
・2008年 会長を3期6年務め、任期満了後に名誉会長に就任。
日本サッカーの今後を考えたら、若い選手はどんどん海外へ行くべき!!
日本で国際経験を積むのは、やはり限界がある。
日本サッカーのレベルアップに為には、
↓
海外へ行き、トップのリーグでレギュラーとして活躍!!
↓
そして、まだ現役バリバリの時に日本へ戻り、日本で活躍!!
そういうサイクルが成立した時に、日本のJリーグは世界に冠たるものになる!!
というお話でした。
川淵さんは、相当昔から、淳さんの番組のファンでいらっしゃったとのことで、
サッカーのお話を伺っている最中にも、狩野英考さんの名前が何度も登場!!
川淵さんが落とし穴に落ちる日も、そう遠くない??(笑)
まとめ ・海外へどんどん行き、トップのリーグでレギュラーとして活躍すべし!!
・リーダー論=ゆるぎない自信を持つこと!!
川淵三郎さんのリクエスト曲♪木戸をあけて/小椋佳
♪サン・トワ・マミー/ 越路吹雪
投稿者 newsclub : 08:52 PM