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diary

2016年11月7日 立冬に咲く花

ご存じだろうか。
11月5日は世界津波の日。
その5日に行われた「世界津波の日フォーラム」に参加してみた。
なぜ、11月5日が津波の日なのか・・・
遡ること162年
この日の夜、安政南海地震が勃発した。
ご先祖様3代前に起きた地震だろうか
地震名だけ言われてもピンとこない
しかし「稲むらの火」といえばお分かりか。
手短に物語を紹介する。
1854年11月5日
紀州・現在の和歌山県広川町で大地震が起きた。
揺れの後、村人たちは津波が来ることも知らず
逃げるそぶりを全く見せなかった。
高台に住む村の郷士・濱口梧陵(はまぐち ごりょう)は
その様子を見て、このままでは村人が死んでしまうと
瞬時に一計を案じた
自らの、収穫したばかりの稲を積み上げた「稲むら」に
火をつけたのだ。
村人たちは、郷士の家から火が出た事に驚き
消火のために高台の濱口の家に駆け付けた。
すると、自分達の家々が、田畑が津波に飲み込まれ
一瞬にして無くなった。
そして、命が助かった。めでたしめでたし・・・
ここまではご存知の方は多いだろう。
とっさの判断で村人の命を救った濱口梧陵。
しかし、梧陵の偉大さは、この時点ではまだ半分なのだ。

この後の村人の気持ちを想像してほしい。
津波によって家も田畑も漁の道具も流された村人たちは途方に暮れた。
中には村から出ていこうとする者も現れた。
このままでは村が無くなってしまう。
これを食い止めるため、濱口は私財を投げ打ち
村人の仕事を作った。
それは「津波の堤防」を造ること。
4年後、高さ5メートル、長さ600メートルの堤防が完成した。
村人は新たな仕事が生まれ、暮らしを続けられたという。
さらに、村人が作った堤防が約100年後の1946年昭和南海地震から
村の大部分を守ったのだ。
人命第一は当たり前。
そのあとの被害地域の生活を維持していくことも
大事なことなのが改めてわかる。
現実は命が助かった後にも苦難が襲ってくるのだ。
「稲むらの火」は美談だけではない。
今の政府が被災者の皆さんに敷くべき道
ここから学ぶことが沢山あったということを知った。
なぜ濱口梧陵には出来たのだろう・・・
「滅私奉公」
この言葉が浮かんだ。
私たちの中から薄れつつあるもの
古から今一度学ぶことが沢山ある
そう感じた
そして、私たちは「~だろう」という過信を
災害においては疑うべきだと強く思った

立冬に咲く花
立冬に咲く花

冬の灯火
冬の灯火