« 2015年3月1日のゲストは土田美登世さん(ライター、編集者) | メイン | 2015年3月9日 時が止まったまま »

diary

2015年3月2日 気仙沼、それでも日は昇る

金曜から日曜まで、宮城県気仙沼市に行った。
東日本大震災から4年。
5年目に入る被災地はどのような状況なのか・・・。
JR気仙沼駅は被害にあっていない。
ただし、大船渡線は一ノ関から気仙沼駅で寸断。
そこから先は、去年からBRTと呼ばれるバス高速輸送システムが出来た。
以前はレールが敷かれていたホーム脇は道路になり
バスが横付けできるようになっていた。
片方はディーゼルカーが、反対側が赤いバス。
普通では見られない光景だ。
一時話題となった、復興屋台村に行ってみた。
冬の2月、客が一番少ないシーズン。
給料日後の金曜だから、そこそこ賑わっていると思いきや、
午後7時でまばら、10件ほどが開いていたが
全く客のいない店が半分だった。
先客2人がいる、魚が売りの「海の家」という店に入った。
40代半ばのダンディーなご主人。首元のスカーフがおしゃれだ。
トロメカジキの刺身が今日のお勧めという。
カウンターに座り、地酒をちびちび頂いて話を聞いた。
トロメカジキ、おすすめ通り美味しい!

「実は、この復興屋台は来年3月いっぱいなんです。
以前は民宿を営んでまして、それを津波でやられ、
同じ境遇の2人と一緒にここを始めました。
それから、1人は独立し、もう一人はリタイヤ。
今は私だけ。喋るのも苦手でこんな感じです。」
むしろ実直でいい人とわかる。

今後の事を聞いてみた。
「実は、近くに、飲食店を集めたビルが出来ます。
そこの権利を確保して」
「あ~それはよかったですね!」
「でも、やめました」
「え?どうしてですか?」
「私には高校生の息子がいます。
店を新たに出すには多額の借金が必要で、
私一人では無理なのです。
すると、息子の人生に影響が・・・。
息子には息子の人生があります。
親の意向でそれを曲げさせるのは違うと思う。
だから・・・やめました。
今後の事は考え中です」

これまでやってきた民宿は波にのまれた。
もし、民宿があったなら、息子も自然と継いだかもしれない。
しかし、新たに始めた居酒屋は、状況が違うと父は考えたのだ。
複雑な心境が伝わってきた。
あの日の津波が、何もかも変えてしまった。
それでも生きていく。
自分として、家族として。
ご主人の額には深い皺が幾つもあった。
料理はどれも美味しかった。
どうかなくならないでほしい・・・そう思った。

気仙沼、それでも日は昇る
気仙沼、それでも日は昇る