2014年7月7日 結晶
13日、今度の日曜から、大相撲名古屋場所が始まる。
600人強の力士が前相撲から幕内まで熱戦を繰り広げる。
角界に入門し、前相撲から始まり、序の口~序二段~三段目~幕下~と
稽古を重ねて階段を上がっていく。
その後の十両からは「関取り」と呼ばれ、一人前の力士として認められる。
さらに幕内へ上り、頂点の横綱を目指すのだ。
ただし、幕内は最大定員40人。十両は26人と決められている。
単純計算すれば、9人に1人しか関取りにはなれない。
「意外になれるのでは・・・」と思うのは浅はかだ。
入門時には体格などの資格がいる。
皆が立派な体の上、常に引退、入門と新陳代謝を繰り返している。
たとえ自分が力をつけても、ライバルたちが力をつければ
地位は変わらない。それどころか、強い後輩が入ってくれば、抜かされる。
だからこそ、絶えず、一層の努力が必要になってくるのだ。
600人の力士には600通りの人生ドラマがある。
その一つを紹介したい。
再田(さいた)史也 29歳。
昭和59年9月28日6人兄弟の末っ子として鹿児島県奄美で生まれた。
奄美大島男子らしく物心がついた頃には既に相撲を始め、
中学校時代には、放課後から夜8時過ぎまで稽古をした。
その甲斐あって3年の時には全国中学校相撲選手権団体戦優勝の実績を残し、
複数の相撲部屋から勧誘が来た。
初めは鹿児島県内の高校への進学がほぼ決まっており大相撲入りの意思はなかった。
しかし、何度も自身の元へ足を運んだ親方がいた。
その熱心な勧誘に心動き、「プロになり親に楽をさせたい」と考えた再田少年。
中学校を卒業すると同時に角界に入門し、2000年3月場所で初土俵を踏んだ。
前相撲は2番出世。しばらく序二段で一進一退を繰り返したが
2001年7月場所で三段目に初めて昇格。
まずまずの成長だったが、本人には甘えがあったという。
入門から1年半が経過した2001年7月場所中、お父さんの訃報を知った。
ショックだった。十両以上しか許されない、紋付き袴を身に着け、大銀杏(髪形)を
見せてあげたかったのに・・・。
もっと相撲に対して頑張らなければと意識が変わっていった。
しかし現実は厳しかった。自分も力をつけてはいるが、周りも強くなっているのだ。
壁にぶつかり、1年間は三段目と序二段を行き来する生活が続いた。
2001年7月場所からようやく三段目に定着し、三段目上位も経験した。
いよいよ幕下が見えてきたとき、新たな試練が。
2004年5月場所前の稽古で負傷し、その後2場所全休。
復帰した11月場所では序二段の下位に落ちていた。
心が折れそうになったが、亡き父を思い出し、稽古を重ねた。
復帰場所から3場所連続で6勝1敗の好成績を上げ続け、
2005年5月場所では初めての幕下。
5番相撲からの3連勝で勝ち越しを極め、翌場所は幕下中位に番付を上げた。
しかしその後は幕下中位から三段目上位の壁にぶつかり、一進一退が続いた。
「このままだと俺はダメになる・・・切り替えるきかっけを作らねば」
再田はもがいた。
2008年3月場所からはそれまで本名をそのまま使用していた四股名を
「若乃島」と改め心機一転。稽古に励んだ。
2010年9月場所からは幕下に定着し、翌2011年9月場所からは幕下上位の十両昇進が見える番付に来た。
2012年3月場所は幕下筆頭(一番手)まで最高位を更新したが
敢え無く負け越しが確定。
2013年1月場所後、師匠の停年(定年)退職を控えて部屋が閉鎖されたため、新たな部屋に移籍。
自分を育ててくれた親方が定年を迎えた際に自身も引退を決意したが
「今やめたら悔いが残る。最後まであきらめるな!」と叱咤激励され、続投の決意を固めた。
これまで、自分はまだ迷いながら生きていたことを恥じ、一層稽古に励んだ。
漸く心が決まった2013年の4月に母親の病がわかった。
「神様は何ということをしてくれるのだ。
俺が何か悪いことをしたというのか!?」
怒りと同時に
「今度こそ、なんとか生きているうちに十両昇進を報告しなければ」と
一心不乱に稽古をした。
「父に見せられなかった土俵入りを、母には見てもらいたい。
せめて、報告だけでも・・・」
不安になる心を紛らわすためにも、彼は稽古した。
しかし、その報告は間に合わず、母は今年1月、天国へ旅立たった。
「母さん、涙を流す時間があったら汗を流すよ。そうだよね・・・」
自分に言い聞かせ、目を真っ赤にしながら四股を踏んだ。
父と母が天国から見守っている。
もう嘘はつけない。全部見ている。見ていてくれる。
6人兄弟の末っ子の甘さが完全に消えた。
直後の2014年1月場所、勝ち越して翌3月場所は西幕下4枚目で勝ち越し。
2014年5月場所は幕下筆頭。入門から14年。勝ち越せば、いよいよ「関取り」だ。
中日(なかび)前までで、3勝1敗。あと1番勝てば勝ち越し。
十両昇進当確には、さらに一番プラスすれば安心だ。
「勝ち越したら、定年になった親方に恩返しができる。報告に行こう。
あの時叱ってくれてありがとうございましたと、お礼をいわねば。
そのためにはあと2番!よしっ!」早く相撲が取りたかった。
やる気の充満した男に、神はまたしても試練を与えた。
中日に入門時の師匠であった親方が急死したのだ。
「どうしてですか!?なんで?・・・せめて、あと1週間・・・報告したかった・・喜ぶ顔が見たかった・・ありがとうと言いたかった・・握手したかった」
父、母そして第二の親までもが天国にいってしまった。
翌日の相撲は・・・負けた。
しかし、失意で負けたわけではなかった。
彼は成長していた。ただ逸(はや)りすぎたのだ。
「みんな、見ていてくれ!俺はやる。俺は、1人じゃない」
その後きっちり2番勝った。
5勝目をあげ、十両昇進が決まった取組後の支度部屋、彼は泣いた。
記者が囲む中で、まわしをつけたまま、憚らず泣いた。
堪えてきたものが一気に解き放たれたのだ。
その涙には、幾つもの意味があった。
場所後の番付編成会議で十両昇進が決定した。
新十両まで所要85場所は、史上4位のスロー出世記録。
悲しみは幾つもあった。しかしその度に乗り越え、大きくなった若乃島。
先日、都内で「若乃島十両昇進祝賀会」が盛大に行われた。
現親方の芝田山親方(第62代横綱大乃国)は挨拶でこう励ました。
「ようやく若乃島の努力が形になりました。稽古は嘘をつきません。
これは、私も経験しています。彼にはもっともっともっと頑張ってほしい。
幕内に旭天鵬という力士がいます。彼は今年40歳です。
若乃島は今年30歳。あと10年行けるんですよ!」
会場を、両親が見守っていた。姉が遺影をステージに立つ紋付き袴姿の末っ子に向けていた。
13日に初日を迎える名古屋場所。大銀杏を結い、土俵入りをし、いざ土俵へ向かう若乃島関を
お父さん、お母さん、そして放駒前理事長が天国から見守っている。
名古屋場所にむけて彼はこう言った。
「持ちうる力を一番一番に注ぎます。これまで、どうして?という試練がいくつもありました。相撲にも挫けそうになりました。しかし、いくつもの別れを経験し、乗り越えるたびに、成長させてもらったのも事実です。
皆さんの期待に少しでも応えるよう、頑張ります。
今、出げいこで横綱鶴竜関に胸をだしてもらってます。いやあ、重い!動かないんです。体重はそんなに変わらないのに・・・。まだまだです。」
ひとなつっこい笑顔が輝いていた。
芝田山部屋 若乃島 史也 29歳。身長180センチ体重130キロ。
これまでひと場所7番だった取り組みが、15日フルに。気力・体力との戦いもさらに加わる。
人の数だけドラマがある。
本当の努力は決して裏切らない。そして諦めないことが明日につながる。
改めて教えられた。
新十両 若乃島、頑張れ!