5月2日 小椋佳さんの名言
当時「個人」が「個人」ではない、
「国全体が組織化・管理化」の時代――
“人間疎外”が叫ばれた時代に
あえて「“典型的に疎外される”人間になろう」と思った・・・。
(組織の)中にいながら、もう一人の自分が何かモノを創り
表現する人間になれば、“アウトサイダーでいる芸術家”とは
別の役割を果たせるかもしれない――
そんなことを、何の“表現の武器”を持っていないのに
大学卒業間際のコンパの席で酒の勢いで大言壮語していました。
(会社を辞める気にならなかったのはなぜですか?)
銀行に入った時の 男 としての“生き方の選び方”で
「歌が売れたからやめませんか?」という話は
いっぱいあったけど、そういう気は全くなかったんです。
“組織内存在”として生き続けて
“組織内存在”でありながら“表現者”たりうる人生を
選択して、その生き方を全うしようと思ったんです。
(仕事に関わる時間の割合は「銀行を10」とすると「歌は1」)
当時、僕はあくまで銀行員です。
“歌作り”というのは、いってみれば「日記」を書くようなもの。
だから人に対して
「あなたは、務めていながら よく“日記”を書きますね」
とは言わないでしょ。
「年間50曲」って、たいしたことないんですよ。
正月3日休みで30曲くらい作ってたんです。
あと20曲は、ゴルフがキャンセルになった日曜日とか…
そんな程度のことなので
“二足のわらじを履いている”という気はなかったです。
収入は「歌」の方がはるかに多くいただいていましたけど、
歌のことで「仕事をしている」という気はなかったです。