639

7月4日は藤子不二雄Aさん登場 ~ 手塚治虫スペシャル!


~ ドコモ団塊倶楽部 手塚治虫さんスペシャル放送記念
  映画「MW」全国特別ご鑑賞券プレゼントのお知らせ ~ 詳しくはこちら
_________________________
「ドコモ団塊倶楽部」7月4日放送のゲストは
漫画家の藤子不二雄Aさん。
 
テーマは
『手塚先生に憧れ、藤子・F・不二雄さんと二人三脚!
 そして今、一人で歩む まんが道55年に侮いなし!!

 ~ 手塚治生誕80年企画 ~ 』

 
“漫画界の梁山泊”ともいわれる伝説の「トキワ荘」の生き証人、
「オバケのQ太郎」(藤子・F・不二雄さんとの共作)
「プロゴルファー猿」「笑ゥせぇるすまん」などでおなじみの
藤子不二雄Aさんの55年に及ぶ漫画家人生を振り返るほか、
今年で生誕80年の手塚治虫さんとの貴重なエピソードも伺います。
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「団塊リポート」のコーナーでは、新潟県長岡市の栃尾地区の
農家の女性たちの間で代々受け継がれてきた“てまり”
その伝統の技を継承している「栃尾てまりの会」の会長
福王寺さんに電話でお話を伺います。
 
  スタジオでは事前に送っていただいた「栃尾てまり」を
  手に取りながらお送りいたします。
  (写真をクリックすると拡大します)
 

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  ※信越放送と山梨放送をお聴きの方は
   7月5日(日)の放送でお楽しみください。

 
 
◇放 送 内 容◇(予定)
 
手塚治虫さんのデビュー作「新宝島」に衝撃!
 
 手塚治虫さんに憧れて漫画家を目指した藤子さんが
 少年時代に感激したのが手塚さんの単行本デビュー作「新宝島」。
 その魅力は? 
 
トキワ荘は我が青春の黄金時代
 
 「青春はトキワ荘とともにあった」
 「トキワ荘を出たとき、僕たちの青春は終わった」
 
 藤子不二雄Aさんが昭和29年から7年間暮らした
 トキワ荘の思い出を伺います。 
 
藤本弘さんとのかけがえのない友情
 
 ふたりでひとりの合作ペンネーム「藤子不二雄」とした経緯は?
 ふたりの共同作業、分業の実態は?
 そして、コンビ解消の本当の理由とは・・・
 
検証!手塚治虫のアンビリーバボー伝説!
 
 今も多くの人を惹きつけてやまない手塚漫画の魅力とは?
 漫画家・手塚治虫さんが成し遂げた最大の業績とは?
 
 藤子不二雄Aさん、弘兼憲史さんが最も好きな手塚作品は?
 
庶民文化研究家・町田忍さん登場「団塊ホームルーム」
 
 レトロアイテムは、昭和38~39年の「少年サンデー」「少年マガジン」。
 昭和34年(1959年)3月17日に揃って創刊された
 日本初の週刊マンガ雑誌は今年、創刊50周年を迎えました。
 
 手塚治虫さん、藤子不二雄さんらを擁する 人気の「サンデー」に
 「マガジン」も「巨人の星」「天才バカボン」で巻き返し・・・
 
 
◇メール・FAXのテーマ◇
 
< もう一度読みたい昭和のマンガ >
 
「笑ゥせぇるすまん」「ブラック・ジャック」「ベルサイユのばら」
「ゴルゴ13」「美味しんぼ」「ドラえもん」「サザエさん」
「巨人の星」「課長島耕作」などなど・・・
もう一度読みたい作品と、読みたい理由を教えてください。
 
藤子不二雄Aさんへの質問・メッセージ、番組の感想も大歓迎です。
 
 
メールのあて先は dankai@joqr.net
 
メッセージをお寄せいただいた方の中から抽選で5名様に
3千円分のミュージック・ギフトカードをプレゼントします。
たくさんのお便りをお待ちしています。
 
※藤子不二雄Aさんの「A」の正しい表記は ○にA です

2009年06月27日

637

6月27日 町田忍コラム『ボーイスカウト』

ボーイスカウト運動は1907年
イギリスにおいて、ロバート・ベーデンパウエル卿が
健全な青少年活動としてはじめたもので、
現在世界約150カ国にて展開されている。
 
内容は、奉仕の精神、そなえよつねに等、
4年に1回全国のボーイスカウトが集まった祭典
「日本ジャンボリー」が開催されるほか、
世界のスカウトの祭典「世界ジャンボリー」もある。

大会などに参加するとワッペン、バッジなどが交換出来る。


 
写真で紹介しているものは
私が参加した種々の大会にて交換などしたもの。

「ボーイスカウト ポケットブック」は訓練時に使用する教本。

2009年06月27日

636

6月27日 石川真紀 放送後記

歌手生活44年 ― 。

これほどの道のりを常に第一線で歩み続けるには、
歌唱力はもちろんのこと、
執筆に、バラエティに演技にと、多彩に活動されてきたこと、
そして、
包容力とサービス精神、
その全てを兼ね備えておいでだからでしょう。

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放送中、ご自身の楽曲をおかけしている間も
自ら口火をお切りになって、
紫陽花の名前の由来や、
竹内まりやさんの楽曲をカヴァーされた「駅」の歌詞の世界など、
優しい笑顔とともにお話しくださり、
多くの女性ファンのハートを射抜いてこられたこと、
「この手のひらほどの倖せ」が主に男性の涙を誘っていることを、
ただただ深く納得しておりました。

布施明さんの瞳には、
道を究めていらっしゃるように見えて尚、
後進にさえも学びながら更なる高みを目指す意志が
強い光となって輝いていました。

2009年06月27日

635

6月27日 弘兼憲史 放送後記

楽しく仕事をさせていただきました。

布施さんは思っていたよりも やさしくて人格者で
あれだけの大スターだから
「ちょっと怖い人かな?」と思っていたら
まったく違いましたね。


 
あの「朗読」で僕ら男はものすごく涙腺が緩みまして・・・
「僕だけかな?」と思ったら、
スタジオの外のスタッフも みんなウルウルきていたみたいで
本当に きょうはいい番組だと・・・思いませんか、石川さん?

  石川 「もちろん そうです。
       弘兼さん、これからも『恋』を歌っていくんですね?」

 
(笑) わかりました。
『恋』をこれからも歌っていきます!
 
  ♪♪ 恋というものは 不思議なものなんだ~ ♪♪
 
 
(スタッフ) マイクあげておけばよかった!

2009年06月27日

634

6月27日 布施 明さんの名言

(若いアーティストとのコラボレートについて)

僕もいろんなカヴァーをしたんですけど、
『君は薔薇より美しい』はいろんな人がカヴァーしてくれて、
一緒に歌ったりするんですけど
歌ってみると、気がつくことがものすごく多いです。

その人それぞれの良さがあって
「これ、もっと早く知りたかったな」というのがたくさんあって
若いアーティストは素晴らしいです。

(カヴァーの醍醐味について)

カヴァーをする原曲を超えることは絶対にできないです。
どんなに素晴らしいアーティストが
ビートルズの初期の曲をカヴァーしても
ビートルズにはかなわない。

カヴァーは元の歌にはかなわないんですけど、
また良さがあるんです。

はやり歌には二つの“命”があって、最初に発売された時の命、
それから何年もたって、その頃に聴いてくれた人がもう一度聴くと
その時代に戻ることができるのが第二の命。
カヴァーの良さは その部分だと思うんです。

私たちは、その時の“景色”を変えることはできないけど
“色”を原曲から少し変えることができる。

若いアーティストと一緒にやってみると
自分にない“色”を持ってるんです。
「そういう色に(当時)気がつけば、
 この色とこの色を混ぜたりすることができたのにな」と
すごく勉強になります。



布施明さんの好きな言葉
 
『萬事如夢』 (『万事みな夢の如し』)

学問の神様といわれた菅原道真が死ぬ前に
いろんなことを書いている中に出てくる言葉です。

学問の神様でも、人生過ぎてみれば
「夢の世の夢のようなもんさ」と言える――
そんな人生でもありたいな・・・、
『万事夢の如し』になるように、まだいろんなことをしたい――
ということでもあるんですけど。


 
※2012年9月15日 2度目のご出演時の“好きな言葉”はこちら

2009年06月27日

614

6月27日 ゲスト:布施 明さん

テーマ:『“アラ還”の [ほし] 布施明
 人生、倖せは手のひらほどと見つけたり!』

 弘兼憲史さんとは同い年、
 1947年生まれの61才
 歌手の布施 明さんを
 ゲストにお招きして
 大ヒット曲「シクラメンのかほり」や
 最新カヴァー曲に関することのほか
 映画化も決まった
 童話「この手のひらほどの倖せ」
 ことについても伺いました。

 
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歌手休業を吹き飛ばした『シクラメンのかほり』ヒット

1975年のヒット曲『シクラメンのかほり』は
布施明さんがデビュー10年を迎えた28歳の頃の作品。

当時、ヒット曲に恵まれなかった布施さんは
歌手活動を「休みたい(やめてもいい)」と考え
1年間の休業を申し出ましたが、事務所の返事は
「最後にもう1曲出して だめだったら休んでもいい」

そうした中、発表されたこの曲は大ヒットとなり、
75年のレコード大賞にも輝きました。
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「書く」ことのきっかけ

エッセー集や小説を出版している布施明さんは
コンサートで歌うすべての曲の作詞を手掛けるなど
元々、詩を書くことが好きだったそうで、本を書くきっかけは・・・

 昭和30年代前半の小説には
 傑作が多い一方、
 東京五輪前・昭和37年頃から
 ビートルズ来日=41年を経て、
 大阪万博=45年の前までの
 数年間には、興味深い出来事が
 多くありながらも書籍化されない
 ジレンマがあったそうです。

 
布施 「この何年間かの話はホントものすごく面白いのに、
     『なぜ みんな書いてくれないんだろう?』
     って思って、自分が経験したり、聞いたりしたものを
     小説みたいな形で書き始めたのが
     本を書く始まりになったんです」

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朗読『この手のひらほどの倖せ』

布施明さんは、自らが執筆した童話
『この手のひらほどの倖せ』の朗読を
2005年の歌手生活40周年記念コンサートで披露され
大きな話題になりました。

童話制作のきっかけは、全国30か所以上のツアーで毎日歌うことの
“疲労”を考え、物語を書いて、朗読をすることで
“楽”になると思ったそうですが・・・

布施 「実はそっちの方がきつかったという・・・」

養護施設で育った幼い兄弟の物語――「ご自身の実話?」と
誤解されることも多いようですが実際はフィクションです。

ゴルフ場への往復の際、箱根にある養護施設の前を通り
その度に“物語の妄想”を重ねたのだそうです。

放送では、物語の後半の一部を布施明さんご自身に朗読していただきました。

布施 「実は“団塊の世代の男性に声に出して呼んでもらいたい”
     というのが、本にした理由なんです」

この布施明さん原作の童話が『手のひらの幸せ』のタイトルで
映画化されることになりました。
今年7月、物語の舞台である新潟で撮影が始まり、
来年2010年1月に公開される予定です。
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『Balaade II』

今年4月に発売された布施明さんの最新アルバム、女性アーティストの
J-POPの名曲をカヴァーしたバラードアルバム
『Balaade II』の中から3曲お聴きいただきました。
 
スタジオは『駅』の歌詞の内容から、
女性心理の話題で盛り上がります。

布施 「“2年前に別れた男にばったり会った”って話でしょ?
     “今になって私のことを愛していたことがわかる”・・・
     そんなこと ほっといてもらいたい!
     女性詩というと“上から目線”が多いんです」

弘兼「“私と別れたからあなたは不幸なのよ”
     みたいなのが ちょっと入ってる」

石川 「わかります!
     どこか“優位にいたい”というか・・・
     別れて“あなたはまだそこにいたのね”とニンマリするような
     そういう感情移入をしながら歌ってしまいますね」
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団塊ホームルーム

レトロアイテムは、かつて布施明さんも入っていて
町田忍さんは今でも委員を務めている
ボーイスカウト関連アイテム。

“ハッピ”には、日本で世界ジャンボリーが開催された際に、
世界中から集まった参加者と交換した“ワッペン”
所狭しと貼り付けられ・・・その数、実に150枚!

町田 「これでジャンボリーに行くと人気者になれるんです」

『上下関係のルール』や『規律』を学ぶことができ、
何よりも「楽しかった」と語る布施さん、
「ボーイスカウトの『12のおきて』を言えますか?」と聞かれ・・・

布施 「スカウトは『誠実』である。
     『忠節(を尽くす)』『人の力(になる)』
     『友誼に厚い』『礼儀正しい』
     『親切』『快活』『質素』『勇敢』『純潔』『慎み深い』
     ・・・あと一個 何だっけ??」

おしい!残る一つは『従順』でした。
※『おきて』は1988年、次のの8項目へ改定
 「誠実」「友情にあつい」「礼儀正しい」「親切」
 「快活」「質素」「勇敢」「感謝の心を持つ」
 
 
昨今の参加者の減少については

布施 「今はやることがたくさんあるから・・・
     『規律を習ってどうするんだ!』と言われちゃう・・・。
     全員ボーイスカウトに入れたら、絶対いいのに」

町田 「本当はこれからの時代こそ必要なんですよね」


ボーイスカウトを語る布施明さんと町田さん 
町田さんが着ている派手なアロハシャツは、
骨董品店で購入した自転車メーカーの旗を仕立て直したもの。

  子供の頃、ボーイスカウトで学んだことは、
  長い年月を経ても忘れることはなく、
  ある時、お子さんがプールで溺れてしまった際にも
  瞬時に、人工呼吸の方法を思い出し
  無事助けることができたそうです。

布施 「子供の頃に脳の刷り込んだものは
     す ご い ものなんだなと思いました。
     『ロープの結び方』も何かあれば思い出しますよ」

※この話題については町田忍さんのコラムも合わせてご覧ください。
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お送りした曲目

霧の摩周湖 / 布施明
シクラメンのかほり / 布施明
君は薔薇より美しい / 布施明
恋 / 布施明
LOVE LOVE LOVE / 布施明 (『Ballade II』より)
駅 / 布施明 (『Ballade II』より)
Everything / 布施明 (『Ballade II』より)

2009年06月27日

639

6月27日は布施 明さん登場!

ドコモ団塊倶楽部6月27日のゲストは歌手の布施 明さん。

テーマは
『“アラ還”の [ほし] 布施明
 人生、倖せは手のひらほどと見つけたり!』

布施明さんは、弘兼憲史さんとは同い年、1947年生まれの
まさに団塊の星!
「霧の摩周湖」「恋」「愛は不死鳥」「シクラメンのかほり」
「君は薔薇より美しい」など数多くのヒット曲を持つ
布施明さんをお招きして、その「意外な素顔」に迫ります。
 
 
◇放 送 内 容◇(予定)

2009年06月20日

636

6月20日 石川真紀 放送後記

告別式から、ちょうど1ヵ月。
この時に振り返る人間・三木たかしさんと
三木たかしさんが生み出し続けた音楽のお話を通じて、
ゲストお3方の思いと音楽観が浮き彫りとなったひとときでした。

番組中にもご紹介した昨年7月のインタビューの際のこと。
闘病中でもあり暑い最中でもあった為、
必要最短のお時間でおいとまをと申し出た私たちに、
三木たかしさんが
「時間は大丈夫ですよ。」
と促してくださったのに乗じて
大好きな『津軽海峡・冬景色』の歌唱指導もしていただけて、
初対面、かつ最後となってしまったインタビューが、
内容の濃い、宝物となりました。

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思い出の深い方を追悼するのには、
シトシト雨よりも今日のような青空が相応しい気がします。

放送終了後、
「天国の三木さんに、喜んでいただける内容になっていたら嬉しいですね。」
と スタッフ一同、話しているところです。

2009年06月20日

635

6月20日 弘兼憲史 放送後記

阿久さんにしても、三木さんにしても
60代半ばというのは・・・早すぎますね。
最近、音楽界の巨匠が次々と亡くなられるんで残念ですね。

荒木さんにはこれから、まだまだ書いてもらいたいです。

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三木たかしさんのように、これだけ作品を残されていると
肉体は亡くなったかもしれませんけど
「ずっと生きてる」という感じががしますね。

歌を聴くたびに“思い出だらけ”という感じです。

2009年06月20日

634

6月20日 荒木とよひささんの名言

レコーディングで(歌い手の人に対して)
「この人、感じてくれてるな!」
感じる瞬間があるんです。
“譜面や詩で書ききれない歌”を演じてくれないと
「棒読みじゃないか」と不満に思うんです。

Araki_090620_02.jpg

三木たかしさんに贈る言葉~荒木とよひささん

Mくん(三木たかしさん)に贈る言葉=“歌詞の1番”を伺いました。
 
『Mくんへ捧ぐ

 友よ 死すとも 変りなく

 朝餉を食いて 煙草[]

 お茶をすすりて 詩を書き

 夕べ 酒にむかう時

 そうか 君はいないのか

 そうか 君はいないのか』

告別式が終わって3日くらいして
本当に“そういう想い”になったんです。

これは2番3番4番5番もあるんですけど…。
 
三木たかしさんに贈る言葉~石川さゆりさん、黛ジュンさん


石川さゆりさん、黛ジュンさんからも
三木たかしさんへのメッセージをいただきました。

2009年06月20日

614

6月20日 三木たかしさん追悼スペシャル!

テーマ:『今も歌い継がれる名曲はキラ星のごとく…
      心を揺さぶる三木たかしメロディーは永遠に不滅です!』

先月5月11日下咽頭がんのため64才で
他界された三木たかしさんを追悼するスペシャルプログラム。
時間の許す限り、曲のリクエストにお応えしながら、
三木たかしさんと親交の深かったゲストの皆さんから
珠玉のエピソードを伺いました。

◇◆ゲストの皆さん◆◇

荒木とよひささん(作詞家)

 三木たかしさんとは
 戦友でありケンカ仲間。
 言いたいことを言い合うことができた
 40年来の親友。
 
 三木たかしさんが作曲した
 約2000曲のうち400曲で
 コンビを組まれました。

 
石川さゆりさん(歌手)

  「津軽海峡・冬景色」「風の盆恋歌」などの
   三木たかし作品が大ヒット。

黛ジュンさん(歌手)

  三木たかしさんの妹で、
  4人兄妹の中でも 特に仲が良かったそうですが
  「歌」に関してはとてつもなく厳しいお兄さんだった!?

  パーソナリティーの弘兼さんは、大学時代から今まで
  黛さんの大ファン。番組でご一緒できて感激!

弘兼 あの頃本当にみんな黛ジュンさんの大ファンで
    いっぱいレコードも買いました。
 
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ピッチャー三木、キャッチャー荒木のバッテリー

作曲家と作詞家の関係を、荒木さんは野球のバッテリーにたとえます。

 主導権を握るのは
 “ピッチャー型”の三木さん。
 
 キャッチャー荒木さんが
 “小細工の変化球”を要求しても
 『ピッチャーは直球だ!』
 といわんばかりに
 首を横に振るケースが
 多かったようです。

曲作りにおける意見のぶつかり合いはケンカに発展
することも多く「口をきかない!」となることも・・・

荒木 でも たかしちゃんの方から「ごめんね」と電話がかかってきましたね。
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三木・荒木コンビの楽曲のほとんどは“曲先”で作られた

三木たかしさんと組んで楽曲を制作する際は
「9割5分」曲が先に作られ、あとから詩をのせたそうです。

  メロディに合わせてフレーズを考えるのは
  苦労が多い一方で、曲を先に知ることで、
  感傷・情感・想い が伝わる利点もあるのだとか。

荒木 たまに詩を先に書いても「手直ししたよ」と
    使ったのは出だしの一行だけで
    あとは僕の詩を使ってくれない…
    「なんでだよ!」って言いましたよ。
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10代の石川さゆりさんが体当たり!「津軽海峡・冬景色」

番組11時台には石川さゆりさんが登場。

石川さゆり 十代の頃からプロデュースして、曲を作ってくださり
       大勢の皆さんに覚えていただける
      “石川さゆり”を作ってくださった素敵な先生です。

「津軽海峡・冬景色」は“メロディ先行”の曲。
初めてデモテープを聴いた時には
「地の底を這ったような暗い曲」「どんな詩がつくの?!」
と思ったそうですが・・・

石川さゆり ♪♪ あ~ 津軽海峡 冬景色~
       ここだけ詩が入っていたんです。

       そのあとにアレンジが加わって
       ♪♪ ジャジャジャ ジャーーン!
       って(イントロが)出た時は
       ホントに鳥肌が立ちました。

三木たかしさんは、石川さゆりさんへの歌唱指導で
歌の世界の“女性像”をとことん追及することを求めたそうです。
しかし当時のさゆりさんは・・・19才!

  「この女性はどんな格好でここに立っていると思う?
   “旅に出た”といっても、
   準備万端 トランクを持ってきてると思う?
   それとも、何も持たずに出てきたんだと思う?」

石川さゆり 10代で“その時の女の気持ち”なんて
       わかりようがないですよね?

  「さゆり、君の歌はウソをついてるよ。
   理路整然とした うまい歌は感動しないんだよ。
   人の喜怒哀楽って、もっと呼吸が乱れたりとか
   もっと違うものがあるよ」

石川さゆり いろんなことを聞いて、結局は
       私はこの歌に体当たりするしか…、
       しがみつくことしかできない…と思いました。
____________________________

黛ジュンさんの歌は、三木たかしさんの真似だった?!

番組後半には、三木たかしさんの妹・黛ジュンさんが登場。

   兄・三木は音楽の面では
 ものすごく厳しかったです。
 『なんでそこまで言うの?!』と
 思うくらい。、私は兄の言葉で
 ものすごく傷つきました。
 指導が なにしろ厳しく、
 絶対に妥協しないんです。

ジュンさんが自らの思い描く通りに歌えなければ
何時間かかろうと、できるまで歌わせたそうで・・・

  しまいには『こう歌って』と歌って聴かせるんです。
    そうすると結局 私が兄の歌う真似をするわけです。
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2008年7月、三木たかしさんが「日本の風潮」を語る

去年7月、「阿久悠さん追悼特集」をお送りした際
石川真紀アナは三木たかしさんにインタビューを行っています。

  今回は、当時 未放送のインタビューの中から
  “最近の風潮”について語っている模様を
  お聴きいただきました。

三木たかし こんなに簡単に流行を作れる国も、忘れる国も少ない。
        ファッション、本、映画…、
        自分自身で良いものを見つけることが少なく
        音楽もそうなんです。

 
        例えば、若い人が演歌を聴くと
        「かっこ悪い」「バカだな」と言われる。

        (そうではなく)「私は嫌い」というなら よくわかる。
 
        だから みんな同じ様な格好をしてるんです。

石川真紀 初対面だったんですけど、私の眼を見て
      とてもやさしく、笑顔をみせてくださいまして、
      音楽のお話をされる時の目の光が印象に残っています。
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未来へ伝わる三木たかし作品――そして新曲も?

今回の三木たかしさん追悼特集では、
三木さんとは極めて 縁の深いゲストの皆さんから、
意外な一面、歌作りの裏側、プロの思考…など、様々なエピソードを
荒木とよひささん、石川さゆりさん、黛ジュンさんの
生の声でお届けすることができました。

また番組をお聴きのリスナーの方からも、たくさんのリクエストや
三木たかし作品に対する思い出・追悼メッセージをお寄せいただきました。

  ラジオネーム・じゃがバターさん(30代女性)

   今週は「三木たかしさん特集」ということで
   調べたところ、知らない間にずいぶん
   三木さん(作曲)の歌を歌っていたことに驚かされました。

   曲はどれも歌詞カードを見なくても歌え、
   すっかり私の体の中にしみ込んでいるようです。

   三木さんは亡くなられても、遺された歌は
   いつまでもいつまでも伝わっていくことでしょうね。

弘兼さんを含め多くの方から
“たとえ亡くなられても三木たかしさんは楽曲と共に生き続ける”
というご意見が寄せられる中、
荒木さんから、詩がついているもの・曲だけのものなど
多くの「未発曲」の存在が明かされました。

私たちには まだこれからも「三木たかしさんの新曲」と
巡り合うチャンスが残されているのかもしれません。

そして番組の最後には、荒木とよひささんから
リスナーの皆さんへのメッセージをご紹介いただきました。

荒木 三木さんの歌を「これも三木さんか…、あれも三木さんか…」
    「こんなにすごい作曲家がいたんだな」と思い出してほしい。

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ゲストが語る三木たかし語録

「自分は偉大なる素人で、好奇心を持って
  何か空から自分の体に降ってくるものを 僕は書きたい」

石川さゆり ご自分が「プロ」であることを掲げない方でした。


「歌は声がひっくり返ろうが いいんだ。
  そのままの想いで歌え!」

黛ジュン 『さくらの花よ 泣きなさい』を初めて歌った時
       高い部分をファルセットで歌ったんです。
       すると兄は「地声でちゃんと歌え」と…。

「ありがとう。とよさん、ごめんね。
  つまんない歌を書いちゃダメだ」

 (最後に交わされた筆談による会話)

荒木とよひさ 返事を書きました。
        「『ありがとう』『ごめんね』はこっちの方ですよ。
         つまんない歌は書き続けますよ。バカ」

        って書いたら 笑ってました。
____________________________

お送りした曲目

そばに置いて / 岩崎宏美(荒木とよひさセレクション)

三木たかしさんとの思い出の曲の中のひとつとして
荒木さんに一曲 選曲していただきました。

三木さんがアレンジを加えて書き下ろすはずだった楽譜が
未完成だったことから、レコーディングはいったん中止。
荒木さんは三木さんに「どうしてくれるんだ!」と
怒りをぶつけたそうです。

また、テレサ・テンさんへの提供楽曲の原点となったのが、
この曲なのだそうです。


揺れるこころ / 石川さゆり(石川さゆりセレクション)

まだ日本にミュージカルが定着していなかった1978年に
三木たかし&阿久悠コンビが楽曲を手掛けたミュージカル
『今竹物語~ヒカル翔んで行く~』の中の一曲。

石川さゆりさんの二十歳の頃の歌声をお聴きいただきました。

津軽海峡・冬景色 / 石川さゆり

この日お寄せいただいたリクエスト第1位。
石川真紀アナウンサーは三木たかしさんにインタビューした際
歌唱指導を受けました。

  石川真紀 本当に大事な宝物として
         胸にしまわせていただいています。

  弘兼 それはすごい宝ですね!
      今度は歌唱指導の効果がどれくらいのものか
      聴かせていただきたいと思います。

さくらの花よ 泣きなさい / 三木たかし

遺作となってしまった「さくらの花よ 泣きなさい」は
2005年、三木たかしさんと荒木とよひさんの
紫綬褒章同時受賞を記念して制作されました。

放送の中でお聴きいただいたのは
手術10日ほど前に収録されたもの。

さくらの花よ 泣きなさい / 黛ジュン

当初、歌唱指導に戸惑いながらも
黛ジュンさんが“想い”を込めて歌い上げました。

みずいろの手紙 / あべ静江

あべ静江さんはこの歌を発表した1973年、
日本レコード大賞 新人賞 受賞。

思秋期 / 岩崎宏美(この日のリクエスト第7位)

岩崎宏美さんはこの歌を発表した1977年、
日本レコード大賞 歌唱賞 受賞。

乙女のワルツ / 伊藤咲子

伊藤咲子さんの1975年のヒット曲。

時の流れに身をまかせ / テレサ・テン(この日のリクエスト第2位)

1986年、日本レコード大賞 金賞 受賞。

2009年06月20日

639

6月20日は三木たかしさん追悼スペシャル!

ドコモ団塊倶楽部6月20日の放送は
団塊の世代にも大きな影響を与え
先月5月11日、名曲の数々を残して、下咽頭がんで亡くなられた
作曲家の三木たかしさんを追悼する特別プログラム。
曲のリクエストにもできる限りお応えいたします!

テーマは
『今も歌い継がれる名曲はキラ星のごとく…
 心を揺さぶる三木たかしメロディーは永遠に不滅です!』

ゲストには三木たかしさんと とりわけ関係の深いお三方をお招きします。

○作詞家 荒木とよひささん
 …三木たかしさんとは400曲以上でコンビを組み
  告別式で涙ながらに弔辞を読まれました…

○歌手 石川さゆりさん
 …「津軽海峡・冬景色」と「風の盆恋歌」は
  三木たかし作品の大ヒット曲…

○歌手 黛ジュンさん
 …三木たかしさんは実のお兄さん。
  遺作「さくらの花よ 泣きなさい」を歌っていらっしゃいます…
 
 
◇放 送 内 容◇(予定)

2009年06月13日

637

6月13日 町田忍コラム『ラジオ』

ラジオの一般放送が始まったのは、大正13年のこと。
当時はまだ一般家庭にまでは普及していなかった。

そんなラジオ…戦後急激に普及し、多くの民間放送が登場した。

写真(左)の木製のラジオは私の家で昭和28年頃購入したもの。
これで色々な放送を聴いた思い出がある。


(写真右)ペンの大きさと比較 “持ち運び”が可能に

もうひとつ、スタジオに持参したラジオはトランジスターラジオ
「東芝のヤングセブン」
。(写真中、右)

トランジスターラジオの登場で
それまでタンスなどの上におかれていたものが
個人使用ラジオということが可能になった。

この頃から若者向けの深夜番組がはじまった。

2009年06月13日

636

6月13日 石川真紀 放送後記

2歳半から今日まで、
芸能界の第一線で活躍を続け、
プライベートでは、妻として母として、祖母として、
その人生を丁寧に歩んでいらっしゃる中村メイコさんは、
同じ女性として尊敬する要素に満ちています。

打ち合わせから、本番中、お別れ際まで、
その場の空気を常に明るく、温かく保とうと振舞われるサービス精神。
ご縁あってご一緒させていただいた私に
1ラジオ局の1アナウンサーとしての
誇り、励みになる言葉を
沢山かけてくださって、表面では笑い転げながらも
心の中では感涙しておりました。

きっと、あらゆる場面において、
メイコさんはその場の人々に惜しみない愛を贈り、
愛され続けてこられたであろうこと、
後進の人望も厚くていらっしゃることが想像できます。

女性として、大人として「可愛らしく」あり続けるメイコさん。
密度の濃いひとときを、ありがとうございました。


弘兼さんと一緒に爆笑の連続だった石川真紀ぴょん

2009年06月13日

635

6月13日 弘兼憲史 放送後記

75歳ということで、お年を召していらっしゃいますが
“意識”も新しく、僕らの話題にもついてこられますし
年を感じさせないすばらしい若さと元気、
そして、まだまだ色気――女の魅力も残っている
すばらしい方でしたね。

すごく面白いギャグをお持ちなので
すっかり笑わせていただきましたけど、
このネタは私の次の飲み会で使わせていただこうと
ひそかに思っております。


2009年06月13日

634

6月13日 中村メイコさんの名言

美しく老いるための団塊憲法5カ条を伝授!

中村メイコさんの著書「老いてほどほど」(家の光協会)の
たくさんの素晴らしいアドバイスの中から、
団塊の世代のために厳選した5つをご紹介いただきました。


____________________________

1.「老いから目をそむけない」
 
 お化粧を“マイナス”= 薄くして
 ファンデーションを塗らない、白髪を染めないなどで
 徐々にご主人に「慣れさせる」んです。

 近眼だったんですが、老眼が入ってきて
 今よく見えるようになって、
 昔は乱視だったので「キンランロウ」
 チャイニーズレストランで、いいですよ、これ。
____________________________

2.「忘れる能力に感謝しよう」

 出かける時に、二階の自分の部屋から玄関まで下りて
 「忘れ物!」と戻って…昇って、降りて…
 物忘れこそ、いい運動!
____________________________

3.「わざとらマンのススメ」

 年をとってくると、楽な服を着たり
 転びにくい靴を履いたり…となりますが
 そこをちょっと無理して「わざとらしいんじゃないの?」
 というくらいのオシャレを、たまにはしてほしい。

 子供がお友達を家に呼ぶ、というと
 紬の着物、割烹着着て…手料理出して…とすると
 「今、普通のお母さん、そんなんじゃないから!」
 (と言われるんです)
 
弘兼「割烹着飲み屋」って、
    それなりの趣味の飲み屋さんがありますよ(笑)

____________________________

4.「ハレの日を作って暮らしにメリハリを」
 
 白いテーブルクロスを準備して…
 「私が初めて玉ねぎを泣かないで切れた日なの」とか
 自分なりの記念日を いくつもいくつも持つんです。

 そうしないと、日本人の生活って地味にまとまり過ぎるんです。
____________________________

5.「改まって“ありがとう”を言おう」

 金婚式を過ぎた夫婦の間では、なかなか
 「ありがとう」「ごめんなさい」って言えないんです。

 だから一日の中に無理してでも何か作って
 「ぬるお風呂が好きだから、ぬるめにしてくださったの?
  ありがとう!」
って、嘘でもいいから
 夫にも、子供にも、孫にも「ありがとう」って言おう。

メイコさんが「ありがとう」を実践することで
次第に、ご主人の神津善行さんも「ありがとう」と
言うようになり、食後には食器を流しに運ぶようになって
これにはメイコさんもたいへん驚いたそうです。

____________________________

番外.「嘘も方便」

 “一番好き”というポール・ニューマンさんが
 亡くなられた際には・・・
 「悲しいわ!あなたの次に好きな
  ポール・ニューマンが死んじゃった・・・」
って
 順位は逆なんですけど、嘘は本当に必要なんです。
 
“先生の奥さんが作った手料理を「まずい」とは言えず”
時として「相手をたてるためのウソ」をつく日本人と
そのようなウソに否定的な韓国人――
日韓の国民性の話題から・・・

(韓国人の方と焼き鳥屋さんに行った際に
 「すごくおいしい!何で焼いているんですか?」と聞かれ)

  「ビンチョウタンスミダ!」

弘兼 いただきました!そのギャグ!
    明日からの飲み屋で使える。レパートリーがひとつ増えました。

 
 
中村メイコさんの好きな言葉

  『公私ともに 喜劇で 生きたい』

神津善行さんは
「人生はジョークだ」って言うんです。

悲劇より喜劇がいいですよ。

  (喜劇女優で人生を全うしたい?)
  はい!

2009年06月13日

614

6月13日 ゲスト:中村メイコさん

テーマ:『女優生活73年!元祖天才子役・中村メイコが今、明かす
 “七色の声伝説”の舞台裏』

 6月13日のドコモ団塊倶楽部は
 ゲストに喜劇女優としてのキャリア
 実に73年!中村メイコさんを
 お迎えしました。
 
 話題は、元祖天才子役時代、
 “七色の声伝説”の裏側、
 親友・美空ひばりさんとの
 エピソードなどなど……
 スタジオは爆笑に次ぐ爆笑!!

そして、メイコさんから弘兼憲史さんへと伝授された(?)
ギャグとは??
____________________________

スタジオで七色の声劇場!

14~5才の頃に出演したラジオ番組「おねえさんといっしょ」で
おばあさんや男の子など、さまざまな役の声を一人でこなした
中村メイコさん。 その“七色の声”が誕生したきっかけは
戦時中の人形遊びでした。

中村 母がお人形を作ってくれるんですけど
    戦争中で、だんだん きれいな色の[きれ]とか毛糸が
    なくなって、男ばっかりになってきたんです。

そうして、お父さん役や
八百屋さんの御用聞きのお兄さん役など、多くの男性役も含め
一人で様々な役柄をこなして遊んだことが
“七色の声”誕生につながったのです。

弘兼 昔はおもちゃとか与えられたものが
    なかったから、いろいろ工夫したんですよね。

この日は、スタジオで
「中村メイコさんの七色の声劇場」を再現していただきました。

  お題は・・・「無題」。
  台本なしの完全アドリブ、即興で演じてくださいました。

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♪♪私のお家はね~ 大人がいっぱいいるんだよ~

マミちゃん、どこ行くの?
散歩。
おばさんみたいだな。

ター君、悩んでることある?
サッカーが盛り上がらなくてな。
こないだのウズベだってさ…。

ウズベキスタン?
お前、えれぇよ!何でそんなこと言えるの?
マミちゃんのママの方のおじいちゃんがうるさくて
「言葉というのは略さず言えよ。覚えてから略すのはいいけど」
なんて言うんだもん。

あ、向こうからヤなヤツ来たよ。

ちょっとお待ち!どこ行くの、あんたら?
おばちゃん、百円サービスのスーパーの帰りやねん。


(“七色の声”をアドリブで)

うちのママの方のママ、バァバの子守歌って
美空ひばりだったりジャズだったり…
そういうのでお守りされてたから こうなっちゃったの。
バァバのお母さんが言うんだって

「一緒になった旦那が
『日本の子守歌はセンチメンタルでよくない』って、マサツネが言うのよ。
だからママは『ピーナッツベンダー』とかで
あんたを育てたのよ」

って言うんだってさ、おかしいね!(終わり)

****************************

“おばちゃん”が(なぜか)使う関西弁もお上手でしたが・・・
これは、戦時中、疎開先の奈良県の学校で影響を受けたもの。

(先生)「にぃ 足す にぃは ナンボ?」 
(生徒)「しぃー!」

中村 私が「[]って言うと
    みんなの口が開いてる時に口が閉じてるから
    『中村さん、答えてません』って言うんです。
    こりゃ悔しいと思って、
    あくる日から「しぃー」 って言ってました。
____________________________

「田舎のバス」誕生秘話

『間の言葉が面白い』と
「弘兼セレクション」の2曲目に選んだのは「田舎のバス」

この歌の原点は、舞台の公演で訪れた名古屋のデパートの
エレベーターガールさんだった!!

最初は東京のデパートと同じように
「三階にまいります。三階は・・・・・」と言っていたのに
知人がエレベーターに乗り込んだとたん
「あんた、なんぎゃぃ行くの?三ぎゃぁかね?
 歩いた方が早いがね!次は四階でございます」

中村 この“変わり身”が面白くて、
    『こういうのをやりたい』って言ったんです。

また、曲に登場する表情豊かな“牛”の鳴き声には
楽器を使っていますが、これを演奏していたのは
クレイジー・キャッツ結成前の植木等さん。

弘兼 きょう初めて知りました!
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メイコさんが語る“ひばり伝説”

ご夫妻で11作の楽曲を提供された、
親友・美空ひばりさんとのエピソードを伺いました。

○楽譜をあまり読めない ひばりさんは、
 一度 歌を聴くだけで、バッチリ歌えるようになる!
○英語の“歌詞”の発音が上手なひばりさん、
 楽譜にはカタカナと独自の記号を書いていた!
 (しかし上手なのは歌詞だけ?!)
○財布を持たない人生――
 タクシー料金も「つけといて」
 証拠を求めたドライバーに「柔」をアカペラで披露すると
 タクシー代はタダになった!
○メイコさん、神津善行さんご夫妻のお宅に泊まる際
 「どこに寝る?」と聞くと・・・「ひばりは“センター”!」
 「寝苦しかったぞ」とは神津善行さんの弁です。


「ひばりは“センター”」に爆笑の二人
____________________________

中村メイコの喜劇論

「喜劇を演じられれば本物の役者」というお父さんの指導により
中村メイコさんは2歳半の銀幕デビュー作
「江戸っ子健ちゃん」から喜劇の道を進まれました。

中村 練習に練習を重ねたように見えてもつまらない。
    でも実は、ちゃんとした台本通りに
    リハーサルしなきゃ面白くない。

喜劇役者の皆さんが集まる稽古の現場は、
さぞや笑いの溢れる楽しい雰囲気なのかと思ったら大間違い!

中村 不機嫌です、みんな。
    お客様がいなくて のらないですから。

喜劇を志す人(特に男性)に、寡黙で愛想の悪い人が多いのは
きっと皆さん、笑わせることを一生懸命考えているから。

弘兼 僕らの業界でもギャグ漫画家の人の方がおとなしいです。
____________________________

団塊ホームルーム

レトロアイテムは懐かしの「ラジオ」(写真と実物)。

町田 コードを持ってないと電波状態が悪いんです。

写真のラジオは、昭和28年に中古で購入した
町田家初代ラジオの真空管ラジオ。
この日は、写真でのご紹介でしたが、
今でも町田家に大切に保存されています・・・が
町田 コンセントを入れたら臭い匂いがして…怖いんです。

  懐かしのラジオも70代の中村メイコさんにとっては
  「かなり新しい」部類に入るのだそうで・・・

中村 (それ以前には)かまぼこ型の屋根のようなものがあって…
   「こどもニュース」では
   「よい子の皆さん、ラジオの前にいらっしゃい」
    という言葉が枕ことばだったんです。

当時のラジオは動かずに鎮座しているもの、
しかもタンスの上にあるため、見上げるような形となり
「行儀よく聴いた」ものでした。


誕生日は1日違いのメイコさんと町田忍さん

もう1点、スタジオに持参いただいたのは
1966年購入のトランジスターラジオ。

町田 これでラジオは個人のものになりました。
中村 ラジオがついて来てくれる時代になったんですよね。

弘兼 1965~6年の頃「大学受験講座」があって
    ソニーの高性能のランジスターラジオを親に買ってもらって、
    (家は)山口県でしたけど、文化放送を聴いてたんです。
    「受験のため」というのは言い訳で
    夜中に語りかけるような女性パーソナリティーのラジオを
    「俺だけに言ってるんだ」って聴いてました。

中村 恥ずかしながら、その頃、
    「トランジスターグラマー」って言われてました。

弘兼 体が小さいのにグラマーという…
     石川真紀さんは「トランジスターグラマー」ですよね。

※この話題については町田忍さんのコラムをご覧ください。
 各写真も掲載しています。

※弘兼憲史さんの、新たなレパートリーに加わった
 ギャグについては名言コーナーをご覧ください。

2009年06月13日

639

6月13日は中村メイコさん登場!

ドコモ団塊倶楽部6月13日のゲストは喜劇女優(コメディエンヌ)の
中村メイコさん。

テーマは
『女優生活73年!元祖天才子役・中村メイコが今、明かす
 “七色の声伝説”の舞台裏』

“団塊世代の人生の先輩”中村メイコさんをゲストにお迎えして
女優人生の真実に迫ります。
 
 
◇放 送 内 容◇(予定)

2009年06月06日

637

6月6日 町田忍コラム『スキー場パンフレット 他』

きょう私が持参したのは、1969年にわたしがスキーで行った
長野 県飯山スキー場で宿泊した民宿のパンフレットです。

なんと1泊3食700円、リフト券は7回で250円となっています。

実は私、1965年の中学の卒業旅行が苗場スキー場でした。
その時、偶然、撮影中の加山さんとお会いして
その場で手のひらにボールペンでサインをいただいたのでした。

きょうは、持参した1970年頃の
加山さんのコーラのポスターに特別にサインをいただきました。


生放送中、加山さんにサインを入れていただき町田さんはご満悦

2009年06月06日

636

6月6日 石川真紀 放送後記

加山雄三さん、カッコよすぎます!

映画出演、作曲、歌、ギター、サーフィン、スキー、
船の設計、お料理、油絵、素粒子のお話、宇宙論 etc. 

すべての分野において高度なレベルに達し、
その1つ1つを楽しみ、充実させていらっしゃる加山雄三さんは、
お話を伺えば伺うほど、
完全無欠のスーパースターであることを肌で感じます。

何でも自在に操り、お手のものにしてしまう
順風満帆の半生のように見えますが、
実際には、
平坦でなかった時期もおありだったからこそ、
何度でも立ち上がる不屈の精神が底辺を支え、
加山さんの魅力を増幅させているのかもしれません。

奥さまとの出会いが人生一番と仰るソフトな口調も、
素敵です。

相模湾に光進丸の麗しい姿を見つけた時には、
お別れ際の握手の温かさを思い出したいです。

2009年06月06日

635

6月6日 弘兼憲史 放送後記

加山雄三さんといえば、
団塊の世代にとって“アイドル中のアイドル”で、
芸能史に残る永遠のアイドルといえば
石原裕次郎さん、美空ひばりさんがいらっしゃるんですけど
これから(語り継がれるのは)
男性は間違いなく加山雄三さんで、女性は吉永小百合さんですよね。

現在もまだ活躍されていて、
自分たちよりも長生きするんじゃないか
というくらい、すごいですね。
これからも永遠のアイドルとして頑張ってほしいと思います。

  きょう お会いできて幸せだったんですが…
  「話題」があらゆる分野に対して精通されていて
  なんでもご存知なので、時間がまったく足りない
  という感じがしました。

きょうは本当に、自分自身も楽しませていただきました。

2009年06月06日

634

6月6日 加山雄三さんの名言

食生活において、自らに課していることをご紹介いただきました。

・朝たくさん食べる
・夜に向かうにしたがって食べる量を少なくする
・最後の食事から4時間は起きている

加山「最初は腹が減るんです。慣れるまで大変…」

  石川 「決めたことをやり遂げる意志の強さを感じました」

加山「ある程度 年いったら
    “自分との勝負”みたいなところがたくさん出てきます。
    どこまでこなせるか…、それを楽しんでみるのも一興でしょう」

 
 
加山雄三さんの好きな言葉

  『苦しみは 幸せを幸せに 思う心を あたえてくれる』

人間は苦しんだ方がいい、悩んだ方がいいんです。
そうすれば、ありがたいと思う心が生まれてくるんです。
感謝の気持ちが一番大事ですよね。

人生の三カン王というのがあって

「関心を持たなければいけない」
「感動する心を失ってはいけない」
「感謝の心を失ってはいけない」

富士山を見て、いつでも感動して絵を描いている
偉い画家さんが
「感動の心がなくなった時は、俺は終わりだ」
と言ったくらい“感動する心をいつまでも持てる”ということは
感性が磨かれている証拠だと思います。

2009年06月06日

614

6月6日 ゲスト:加山雄三さん

テーマ:『古希を過ぎても“若大将”はピッカピカで、現役バリバリ!』

ゲストには、団塊世代のアイドル、
 永遠の若大将・加山雄三さんを
 お招きして、
 『君といつまでも』のセリフ
 「幸せだなぁ」誕生秘話、
 若大将シリーズのエピソード、
 スキー、食生活、などなど…
 その多彩な魅力に迫りました。

 
____________________________

『君といつまでも』のセリフ誕生秘話

大ヒット曲『君といつまでも』の「幸せだなぁ…」は
レコーディング中に、その楽曲のあまりの素晴らしさに対して
ポツリともらした ひと言がスタッフに好評だったため盛り込まれました。

加山「できてきた曲を聴いて『すげぇ~曲になったな』と(思って)
    間奏の時に自然に出たんですよ。
    『幸せだなぁ』と出ちゃったんです」

さらに『君といる時が一番幸せなんだ』のセリフも加えて
充実したレコーディングが終了。
しかしその後、テレビで歌う際にも毎回、セリフを言うことに。
最初は照れくさかったのだそうで
その上、クセでもあった“手で鼻をこする仕草”まで加わり…

加山「その次から『必ずそれをやってくれ』と義務になっちゃった。
    それはホントに困ったね。

弘兼「僕ら、マネする時、今でも鼻に手をやりますね」
____________________________

「ある日渚に」は一日で作った!?

 加山雄三さんの代名詞ともなった
 映画『若大将』シリーズ。
 当初は「3本ほどで終わる」と
 思っていたそうですが
 大人気に押されて
 全18作のロングシリーズとなりました。

劇中歌にまつわるエピソードで「一番笑っちゃった」こととは…
1968年公開の映画『リオの若大将』の撮影でブラジルに行った際のこと。

劇中で歌うシーンの撮影前日に、主題歌が用意されていないとわかり…

監督「作れ!」
加山「簡単に作れませんよ。僕はメロディメーカーなんですから」
監督「歌詞がなくて『♪ラララ』じゃ しょうがない。あとから映像は変えられないんだ」
加山「どうすりゃいいんですか?」
監督「だから作れ!」
加山「いつですか?」
監督「明日から撮影だ!」

加山「しょうがないから、作詞作曲したのが「ある日渚に」。
    追いつめられるとけっこういい曲作るんだなと思ったりしたんですけど」

弘兼「『若大将』シリーズってある種、観光映画みたいなところがあって、
    それまで見たことのないリオデジャネイロが見れて楽しかったです。
    映画そのものが“憧れ”ですね。加山さんも“憧れ”映画も“憧れ”」

____________________________

ローマ市内を巡りに巡って…涙の再会

奥様の松本めぐみさんとのエピソードを披露していただきました。

ローマへ一人旅をした松本めぐみさんに会うために
滞在中のアメリカから空路ローマへと渡った加山さん。

日本人の人目を避けるために待ち合わせ場所を「凱旋門」にしましたが…

加山「凱旋門ってローマにいっぱいあるんだよ」

タクシーに乗り「凱旋門」を目指すものの、カメラを手にしていたことから
観光客に間違えられ、気を利かせた運転手の計らいで“凱旋門巡り”をする羽目に。

時間ばかりが過ぎ去り、ホテルを訪ねても すれ違い…

加山「やっとそこに行ったら、泣きそうな顔してました」

弘兼「今だったら携帯電話がありますけど
    当時は“入れ違い”がいっぱいありましたね」

____________________________

周囲が羨む黒澤明監督との関係

弘兼「それまでの『若大将』シリーズの“楽しい加山さん”から
    『赤ひげ』に出演した“シリアスな加山さん”を見て驚きました」

監督の黒澤明さんには さぞかし しごかれたのでは?と伺うと…

加山「やさしく僕を迎えてくれたんです」

実際は、昔から黒澤さんを知るスタッフの方が
『お前は黒澤さんにかわいがられてるよ』と羨むほどで、
『椿三十郎』の撮影中には、本番で居眠りをしてしまっても
しかられることはなかったそうです。

「加山、眠いのか? 加山のために30分休憩! お前、外で寝てこい」

こうして加山雄三さんは、黒澤明作品、本番の撮影中に
“眠りをした ただ一人の男”として有名になるのでした。

加山「皆さんに『うらやましいよ』と冷やかされました」
____________________________

団塊ホームルーム

町田忍さんが選んだこの日のレトロアイテムは
「加山さんといえば…スキー!」ということで
町田さん高校1年生の時の黒岩スキー場(長野県)の
パンフレットリフト回数券

宿泊…1泊3食付き 700円 / リフト…7回分回数券 250円

スタジオでは、5才からスキーを始め
学生時代には国体出場を果たした“アスリート系”の
加山さんを中心にスキー談義に花が咲き…
板やブーツの進化のたびに“感動”があった当時を
懐かしんでいました。

加山「今…カービングスキーって知ってます?
    真ん中がへこんでて、傾けただけで曲がっていっちゃう…
    切れ味もいいし全然違います」

弘兼「昔のスキーは難しかったですよね」

また町田さんは、1965年の中学校の卒業旅行で
苗場スキー場を訪れた際「アルプスの若大将」撮影中の
加山雄三さん、星 由里子さんに遭遇したエピソードを紹介。

色紙などを持ち合わせていなかった町田少年は
手にサインをしてもらい、一週間以上 消えずに残ったそうです。

町田 「みんながうらやましがるので、手はあまり洗わなかったんです」

 この日はとっておきのレトロアイテム
 1970年頃の、加山さんが登場している
 コーラのポスターもスタジオに。

 約40年前の自分と対面した
 加山さんは…
 「孫みたいなもんですね」

この話題については町田忍さんのコラムも合わせてご覧ください。
____________________________

あっという間にエンディングへ

石川 「様々、お得意分野がありますので、他にも「お料理」のお話なども
    ゆっくり伺いたかったんですけど…

弘兼「加山さんは全部の話題に精通しているので話が尽きないんですよ」

加山「(2時間の放送が)『短いな』と思ったなぁ」

 あれも聞きたい、これも聞きたい、もっと聞きたい!
 と思っても、無情にも2時間の放送時間は
 あっという間になくなってしまいました。

 健康を気づかい、お酒をやめられたこと、
 規則正しい食生活を課していることや、
 番組宛てにお寄せいただいた
 メッセージをご紹介する際に、

お一人お一人に「ありがとう」とおっしゃるお姿などから
短い時間の中でも随所で“永遠の若大将”と呼ばれる所以を垣間見ることができました。
____________________________

加山雄三さんの最新情報

『第7回湯沢フィールド音楽祭2009』

7月19日(日)

会 場 :加山キャプテンコーストスキー場 15時開演
ホスト:加山雄三
出 演 :秋元順子、加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズ、坂本冬美、中村あゆみ、
    BIGIN、南こうせつ
    NEW COMER:eyes、aluto、KEY stone

お問い合わせ:キャピタルヴィレッジ
       03-3478-9999

詳しくはこちらをご覧ください

加山雄三withザ・ワイルドワンズ コンサートツアー
 湘南海物語 オヤジ達の伝説

6月27日(土)
会 場 :神奈川県民ホール 開場17時/開演17時半
チケット:S席7000円

お問い合わせ:KMミュージック
       045-201-9999

7月10日(金)
会 場 :Bunkamuraオーチャードホール 開場18時/開演18時半
チケット:S席7000円

お問い合わせ:東京音協
       03-3201-8116

加山雄三さんのオフィシャルサイトはこちら

2009年06月06日